11年ぶりの近況報告
ハイモンド伯爵からの依頼は、彼の上司が主催する夜会への同伴だった。
その日のアリーネは、いつもよりもことさら慎重に笑みを律した。
「いい表情ね。それでこそあなたよ」
前日まで心配そうにしていたマダム・ブルームが会うなり告げた言葉は、アリーネに安堵の息を吐かせた。
サロンでの支度をいつもと同じ時間に始める。
髪が整えられている間に、自身で化粧を施していく。十年以上も続けて迷うことのなくなった指が、何度か色粉を取り違えた。
控えめに香をまとい、着付けられた衣装の皺を指先でなぞる。色は依頼時の指定どおりだ。アリーネが好む色だったのは、恐らく偶然。
素早く二、三度まばたきをしてから、ドレスの皺を強めに伸ばした。
「アリーネ、伯爵様がおいでになったわ」
マダムの声に立ち上がり、エントランスへと向かう。
低くなった太陽の光が彼の背後から差し込み、アリーネは眩しさに目を細めた。
『アリー』
ふとよみがえった懐かしい声と満面の笑み。それらを追い払うと、アリーネはしっかりと目を開いて微笑を作った。
「お待ちしておりました、ハイモンド伯爵」
「本日はよろしくお願いします。グラニエール嬢」
穏やかな声音と笑んだままの表情で、互いに少しの揺れも詰まりもなく、流暢に挨拶が交わされる。こんな当たり前のやり取りに苦心したのは初めてだった。
視線が合った拍子に彼の目元が弧を描く。感情がまったく見えない笑みで、慣れきった動作のように腕を差し出した。
アリーネはそっと手を添えて、すべるように彼の隣に並んだ。
顔を向けなくても、彼の次の動きは何となくわかる。その姿勢も歩幅も、以前のままだった。
会場へと向かう馬車で、最終的な打ち合わせをおこなった。それは彼の近況報告のようでもあった。
「上司は内務部国史編纂室長です。当部署は淡泊な人間ばかりですが、代々室長だけは催しごとが好きで、そのたびにこうして呼ばれるのです」
「伯爵様は最後までいらっしゃるのでしょうか? それとも中座を予定していらっしゃいますか?」
「おそらく遅れて前室長が来ますから、そうすると室長同士で話し込むので、帰っても引き止められることはありません。前室長が来たら帰宅の合図です」
淀みなく会話が交わされる。けれど仕事の話が終わると、馬車のなかには途端に沈黙が落ちた。
頬に視線を感じながら、アリーネは窓外の景色を眺めていた。拒絶したいわけではない。十一年ぶりの邂逅に、何を話せばいいのか思いつかなかった。
車輪が回る音だけが、車内を満たしていた。
邸に着き、ホールに足を踏み入れる。
一瞬、音が止んだように思えたが、夜会のやわらかなざわめきはすぐに戻った。
しかし、そこには異音が混じっていた。
「なぜまた」「前の方とは」「没落令嬢が」
隠す気のないささやきが耳に届いて、アリーネは背筋をさらに伸ばした。
指先を預けた相手の腕にもわずかに力がこもる。けれども、力んだのは自分の方だったのかもしれない。
『アリー、もっと力を抜かないと。夜会は初めてですって自己紹介しているのかい?』
『違うわ、緊張しているのはあなたでしょう? 最近そわそわしてるって、妹さんが教えてくれたわよ』
『それは……グレイスは構ってほしくてでたらめを言っているんだ。僕はいつでも平常心さ』
『ふふ、素直じゃないわね。でもそういうところも大好きよ、──』
「イアン・ハイモンド伯爵。この度の襲爵、まことに喜ばしい限りですな」
聞き覚えのある声にアリーネは我に返る。
仕事以外に気を取られていたことを悟られまいと、目の前の紳士に目を向けた。
年齢相応に落ち着いた佇まい。視線は柔らかく、それでいて力強さもある壮年の人物がいた。
「これはヴァルノー男爵。お気にかけていただき恐縮です」
アリーネの隣の男もまた、柔和に返す。その腕がぴくりと動くのを、今度こそアリーネは感じ取った。
エドモン・ヴァルノー男爵。爵位に見合わぬ顔の広さで社交界に欠かせない人物だ。彼は妻を亡くして以来、夜会の折にはアリーネをしばしば伴った。
紳士的で踏み込まない。その姿勢は、幾度も指名を受けた今となっても変わることはなかった。
「今宵の花は若き伯爵のもとで咲いていたのですね」
ヴァルノー男爵がアリーネに笑顔を向ける。
「こんばんは、ヴァルノー男爵。本日もお目にかかれて光栄です」
「参加の予定はなかったのですが、主催者に呼ばれましてね」
話しながら男爵は一瞬だけはっきりと、アリーネをエスコートする伯爵の腕を見た。
「ハイモンド伯爵。アリーネ嬢と少しだけお話ししても構いませんか。先日彼女に勧めてもらった書物について、感想をお伝えしたいと思いまして」
男爵にしては珍しい申し出だった。
伯爵は何と答えるのだろうかと、アリーネは自身が触れている彼の腕に目をやった。
ふ、と手の先が温かくなる。
イアンがアリーネの手に触れていた。
「いえ。今夜の依頼主は私ですので、男爵は次の機会をお待ちください」
それは柔和な笑みからはほど遠い、硬く低い声だった。




