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依頼主は元婚約者

新連載です。よろしくお願いします。

本日中にあと2話投稿します。

 夜会という場所へは、何度来ても慣れることがない。

 新たな来場者を読み上げる声や、人々が交わす挨拶にも、神経を張り巡らせておく必要がある。

 楽団が奏でる柔らかな調べやグラスの音に気を取られないよう、笑顔の裏に緊張を隠す。



 アリーネ・グラニエールは壁際に立っていた。

 穏やかな微笑みと隙のない立ち姿が彼女の印象を垢抜けたものにしている。けれど目立ちすぎるということはなく、様々な彩りのなかのひとつとしてそこにあった。


 隣にいる紳士が、最近注目されている投資話について語っている。

 アリーネは頷いて、必要なところでさりげなく問いを挟んだ。言葉の流れが途切れないよう、呼吸のような相づちを打つことも忘れない。

 一方で、相手の顔色や仕草にも目を向け、次に手渡す飲み物を考える。慣れた振る舞いと気配りに、ぞんざいなところも押しつけがましさもない。


 アリーネにとって夜会は仕事だ。もう何度も、様々な人と訪れてきた。

 周囲を見渡す視線の意味も、昔とは変わってしまった。


 紳士が満足そうに笑い、知人を見つけて離れていく。

 一人になったアリーネは、紳士の戻りを待ちわびる仕草で、わずかな首の動きで周囲を見回した。

 人の流れを目で追っていくと、小さな輪が生まれてはほどけていく。


 そのなかに見慣れた姿があった。


 イアン・ハイモンド伯爵。


 楽しげに談笑しながらも、細めた目の奥の感情までは見せない。

 卒のない仕草に変わらない立ち方。



 ああ、今日も来ていた。

 ただそう思うだけなのに、癖のように探してしまう。



 戻ってきた連れに笑顔を向ける。

 どこかでお酒を勧められたのか、先ほどよりも顔が赤らんでいる。

 水を渡し、それとなく引き上げを促した。




「ありがとう、アリーネ嬢。おかげで今日も有意義に過ごせたよ」


 夜会同行を請け負うサロン・ブルーム。そこに送り届けられると、同伴者としての微笑みをしまう。


 同じ夜会から戻ってきた令嬢たちが、さっそく着替えて普段着姿になっていた。

 アリーネも化粧を落とし、複雑に結い上げられた髪をほどいて、ようやく息をつく。


 その後、控え室で記録帳を開いた。

 本日の担当客について、会話の要点や次回希望を短い言葉で整理していく。



 帳簿を書き終え閉じたまさにそのタイミングで、控え室にマダム・ブルームが顔を出した。


「アリーネ、次の依頼よ」


 そう言って書状を差し出すマダムの指先が、どこかためらいがちに思えた。


 いつもと違う様子に違和感を覚えつつ書状を受け取り、まず日時に目をやった。もう習慣になった確認を頭のなかでおこなっていく。


「落ち着いた対応ができる者を、と言われたわ。あなたに任せるのがいちばんご要望に沿うのだけれど……」


 マダムの声を聞きながら、続きに目を通す。会場、催事の趣旨、求められる振る舞い。確かに自身が適任だと思った。

 そして最後に依頼者の名前を確認して、軽く目を見開いた。



 イアン・ハイモンド伯爵。


 知らず指に力が入り、書状がわずかにたわむ。


「……他の子に担当させてもいいのよ。受けるか受けないか、あなたの意思だけ聞いておこうと思って」


 もう一度全体に目を滑らせて、内容に不備はないことを確認した。

 これはハイモンド伯爵からの正式な仕事の依頼だ──わかりきったことを心のなかでつぶやいて、マダムの目を見て返答した。


「問題はありません」



 彼がサロンを利用するのは、何もおかしなことではない。

 婚約を解消したことは、すでに社交界の噂として耳にしていたのだから。


 広げたままの書状に三たび目を落とす。

 あの頃よりも几帳面に整った文字が並んでいた。



 アリーネは灯りを落とし、サロンを出た。手のなかにある依頼が、夜風に吹かれてかすかに震えた。

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