恋だけではない二人
最終話です。よろしくお願いします。
馬車が夜の王都をゆっくりと進んでいた。通りに並ぶ街灯の光が、窓越しに途切れ途切れに車内へ差し込む。先ほどまでの賑わいが嘘のように、馬車の中は静かだった。
「今日は随分と引き止められていましたね」
向かいに座るイアンが、穏やかな声で言った。
「ええ。男爵様が惜しんでくださって」
アリーネは苦笑する。
「あなたが表舞台から去るのが、よほど惜しいのでしょう」
「マダムの差配だとお話しして、一応納得していただきました。本当に渋々でしたけど」
「マダムには、さすがのあの人もなにも言えないというわけですね」
小さく笑い合う。
馬車が石畳を越えるたび、かすかな揺れが体に伝わる。
「でも、あの方には本当にお世話になりましたから」
アリーネは窓の外を見ながら言った。夜気にかすむ街灯が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
「男爵様のご紹介で馴染みになってくださったお客様もたくさんいらして……思えばずいぶんと守っていただいたわ」
「あなたが努力した結果です」
イアンは静かに言う。
「努力……あなたはそう言ってくださるのね」
アリーネは肩の力を抜いたように息をついた。
「グラニエールも落ち着いて、セドリックに子どもができて。こんな日が来るなんて思いもしませんでしたわ」
「鉱山のことはあれで良かったんですか。私はもっと完全な形で決着をつけたかったのですが」
イアンが悔しそうにわずかに顔を歪めた。
「あら、謝らないでくださいな。持ち主があちこちと変わるよりはいいんじゃないかと弟も言っていましたわ」
かつて奪われた鉱山は、当時の譲渡手続きに不備が認められたものの、返還には至らなかった。それでも共同管理という形になり、利益の分配も双方合意の内容にまでこぎつけた。
思い出すと、休まることのない十二年だった。
マダム・ブルームから後進の指導にまわるように言われ、第一線から下がることになったアリーネは、これを機に何かを変えてみようと考えていた。
もしかすると住まいを変えるかもしれない。あるいは趣味を探してみたり、少しばかりできた余裕で慈善事業を始めてもいい。
アリーネは明日が楽しみだと、長らくぶりに実感していた。
しばらく言葉が途切れた。
車輪の音だけが、夜の通りに規則正しく響いている。
イアンが落ち着かない様子で上着のポケットを探り、小さな箱を取り出した。
彼は恭しい手つきでそっと箱を開く。
馬車に吊るされた灯りが一瞬、彼の手元で鋭く光を反射した。
「十二年前、一緒に指輪を作りに行きましたね。注文後すぐに取り下げてしまいましたが」
イアンの声がわずかに上ずっている。余裕ある笑みも今はその顔から消えていた。
「宝飾店で注文書を探してもらって作り直しました。サイズが変わっていなければいいのですが──」
『アリー』
車輪の音に紛れた声をもう一度聞きたくて、アリーネは彼の隣へと移動した。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
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また、ヒューマンドラマカテゴリーで連載中の「サリシャの光〜商会の娘が紡ぐ夢〜」も、明日完結予定です。
本作と同様に、登場人物の心情を軸にした物語となっており、最後にほんのり恋愛濃度が上がる点もお楽しみいただけるかと思います。
よろしければ、ぜひそちらもご覧ください。




