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信じたい思い

 翌朝、雨はその匂いだけを街に残し、雲の切れ間から淡い光が降り注いでいた。



 アリーネは居室に腰を落ち着け、セドリックからの手紙をもう一度開いた。


 そう長くない文章を読み返す。弟のいつもより少し大きな文字が、わずかな高揚を滲ませていた。


 グラニエール家が手放さざるを得なかった鉱山に、再調査の裁定が下ったという。十一年前の理不尽がようやく正されようとしていることが嬉しいと、弟らしい実直な言葉で書かれていた。

 さらにその続きには再調査のきっかけを作った人物の名が書かれ、アリーネの目はその部分を何度もなぞった。

 

 イアン・ハイモンド伯爵。


 彼から送られてきた公文書の写しによって、権利譲渡に不備があったと訴えを起こすことができたそうだ。


 グラニエール家が味わった辛苦と将来の展望を思えば、事態の進展は手放しで喜ぶべきことなのだろう。

 けれど、喜びとは別のところで疑念が湧き出てくるのを止められなかった。


 ──なぜ、彼が。


 個人の感情で彼が立場を利用したのだとしたら、不正や汚職と後ろ指を指されることになる。それはアリーネが望むことではなく、彼もまたそのような愚かなことはしないと思えた。

 では、なぜ。

 結局また同じ問いが考えを占め、アリーネはため息をついた。


「直接聞きに行くのが一番早いわね」




 イアンの勤め先は、最初の夜会同伴の際に聞いていた。

 王宮の内務部を訪ねたアリーネは、案内を受けて静かな廊下を進んだ。

 執務棟のなかでもずいぶんと奥まったその場所には、古い紙の匂いと沈黙が停滞していた。


 案内人は国史編纂室を覗きイアンの名を呼ぶ。すると出てきたのは、にこやかな中年の男性だった。

 

「おや。君は確か、以前夜会でイアン君と一緒だった……?」


「アリーネ・グラニエールと申します」


 アリーネが名乗るとその男性は少しだけ考える素振りをしてから目を丸くした。


 ──ああ、この人は私のことを知っている。


『グラニエール? あの没落した家か』

 もはや聞き慣れた言葉を受け流す準備をしたアリーネに、男性は人懐こい笑顔を向けた。


「イアン君なら奥の会議室にいるよ。あそこは彼の定位置だから訪ねても邪魔にはならない。連れて行ってあげよう」


 男性はこの部署の前室長で、イアンがアリーネを伴って参加した夜会に来ていたそうだ。親しみのある口調がアリーネの緊張を和らげる。


「彼が内輪の催しに女性と一緒だなんて珍しいと思ったから、覚えていたんだ。さ、着いたよ。何もないとこだけど、ゆっくりしていくといい」



 案内された会議室にいたイアンは、現れたアリーネに驚いたように顔を上げた。


 アリーネは突然の訪問を詫び、すぐさま本題に入った。


「鉱山の件、弟から聞きました。貴方が関わったというのは、事実でしょうか」


 礼を言いに来たような気配は見せず、淡々と確認の問いを投げかけるアリーネに、イアンは一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに諦めたように肩をすくめた。


「大それたことは何もしていませんよ。誰でも閲覧できる昔の書類に、取るに足らない不備があった。……担当する者次第では不備とも呼べないほどの軽微なものです」


「それを貴方が見つけたのですね」


「偶然です。経年書類を書庫に移動する仕事に駆り出されましてね。うちは書類整理室なんて陰では言われていますから」


 目を細めた笑顔で何でもないことのように話すイアンを、アリーネはじっと見つめて、そしておもむろに小さく息を吐いた。

 職権を濫用したわけでも、ましてや偽造をしたわけでもないようだった。

 ただしそれは、彼の言葉を信用するならばの話だ。


 アリーネはなんとなく、今のイアンなら信じられると思った。十一年前のような無条件の信頼ではない、今の彼の言動から判断した『信じたい』という思い。新たな信頼が自分のなかに芽吹き始めたことに、アリーネは気がついた。


「そうですか。それならば、理解いたしました」


 口にすると安堵が、静かに胸に広がっていく。

 礼を言っても、おそらく素直な受け答えは返ってこないだろう。それでもと口を開こうとしたアリーネを遮るように、イアンがぽつりと呟いた。


「昨日の園遊会で、あなたは仰いましたね。私と父は違う、と」


 イアンは机の上を見つめたまま、自嘲気味に口角を上げた。


「私は自分という人間を、あまり信用していないのです。力を持てば、いずれ私も父と同じように、誰かの人生を駒として扱う怪物になるのではないか。それを否定したくて、善人のような振る舞いをしているのかもしれません」


 考えることに倦んだような顔で、イアンは一息に話した。

 言葉は皮肉げに自嘲を紡ぐ一方で、伏せた目元には怯えの色が浮かんでいる。


 アリーネは考える前に言葉がこぼれた。


「あなたは十一年前、私を切り捨てました」


 イアンが顔を上げる。古傷に触れられたような、痛みに耐える表情だった。


「ですがあれは私を守るためだったと、私は知っています。あなたがああしなければ、前伯爵は徹底的にグラニエールを痛めつけて、爵位も何も残さなかったでしょう。だからあなたは、前伯爵と同じなどではありえません」


 それは慰めではなく、ずっとアリーネの心にあった事実だった。


「なぜそう言い切れるのですか。私ですら自分を信じられないのに」


「人は案外、自分のことは見えないものです。私があなたを見て信じたいと思ったから信じる。それだけのことです」


 イアンは虚を突かれたように目を見開き、やがて重い溜息をひとつ吐いて降参した。


「……あなたは、変わりましたね。ずいぶんと強くなった」


「そうですか? 人の本質などそう変わらないと思いますよ。あなたも、私の知るころと変わったとは思えません。ですが」


「ですが?」


 アリーネの言葉を復唱し、イアンは眉を上げて続きを待った。

 アリーネは少しだけあごを上げて、勝ち気な少女のような顔で言った。


「もし変わりそうなら、教えて差し上げます」


「それは、何よりも心強い」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 わずかに照れを含んだ、ずっと昔の出会ったころを思わせる笑みだった。




 会議室を出たアリーネは、再び声をかけられた。


「話は済んだのかい?」


「ええ。お邪魔いたしました」


 アリーネは前室長に向かって一礼する。ここを訪れたときの少しの憂いは消え、今はどこか晴れやかな気持ちだった。


「次の夜会にも、イアン君は君を連れてくるのかな」


「もちろん、ご依頼をいただければ」


 アリーネは微笑んで、廊下を歩き出す。


 窓の外には、昨夜の雨に濡れた地面が青い空を映していた。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

明日、完結します。

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