第59話 王都への余波――揺らぐ権威
第59話 王都への余波――揺らぐ権威
王都ローレンツの朝は、いつもより騒がしかった。
鐘楼の鐘が鳴る前から、人々は通りに集まり、低い声で言葉を交わしている。
「……戻ってきたらしいぞ」
「王都軍が?」
「ああ。しかも、負けてだ」
市場の空気が、ひやりと冷える。
戦の勝敗は公式には発表されていない。
だが“退却した”という事実だけが、尾ひれをつけて広がっていた。
昼前、北門が開く。
そこから現れたのは、誇らしげな凱旋ではなかった。
泥に汚れた鎧。
欠けた槍。
俯いたまま歩く兵たち。
歓声は起きず、代わりにざわめきが街を満たした。
「……本当に、戻ってきた」
「勝った顔じゃないな……」
「相手は辺境だろ? どうして……」
兵たちは答えない。
答えられないのだ。
城へ向かう石畳の道で、ある老兵が小さく呟いた。
「……あの軍師だ」
「軍師?」
「グレンヴィルの……追放された令嬢だ」
その言葉は、周囲の耳に吸い込まれ、瞬く間に伝播した。
⸻
王城の会議室では、重苦しい沈黙が支配していた。
貴族たちは視線を合わせず、卓上の書類をいじる。
「……退却は、戦術的判断だ」
「被害を抑えただけだ」
「そもそも魔術師団の連携が――」
言い訳は次々に出るが、誰も責任を引き受けない。
フレデリック王太子は、上座でそれを聞いていた。
顔色は冴えず、指先がわずかに震えている。
「……静かに」
声は弱く、場を制する力を持たなかった。
「退却の理由を、民にどう説明する?」
答えはなかった。
説明できる言葉が、存在しない。
そのとき、側近が書簡を差し出す。
「殿下。辺境より……グレンヴィル領主ゼノ殿からです」
場が凍りつく。
フレデリックは、ゆっくりと封を切った。
中の文は簡潔だった。
――不要な流血を避けるため、退路を確保した。
――王都軍の撤退を妨害しなかった。
――これ以上の介入があれば、正式に抗議する。
署名は、ゼノ・フォン・グレンヴィル。
追記は、端正な筆致で添えられていた。
――本件の軍略は、我が軍師エレノア・フォン・アウグストが立案した。
誰かが息を呑む。
「……軍師?」
「正式に、名を出したのか……」
「追放令嬢を……」
フレデリックは、書簡を握り締めた。
(エレノア……)
あの沈黙。
あの無言の別れ。
そして今、国を揺らす名。
「……彼女は、王都を敵に回すつもりだ」
そう呟いた声には、怒りよりも恐れが滲んでいた。
⸻
その頃、王都の学舎、酒場、貴族の邸宅。
あらゆる場所で、同じ名が囁かれていた。
「辺境で、女軍師が王都軍を退けたらしい」
「令嬢だって? 嘘だろ」
「いや……あのアウグスト家の……」
かつて“悪役”と呼ばれた名が、
今や“敗北の理由”として語られる。
それは同時に、王都の権威が揺らいだ証だった。
⸻
夕刻。
グレンヴィル城の高台で、エレノアは沈む陽を見ていた。
「噂は……王都に届いたようですわね」
ゼノが隣に立つ。
「ああ。お前の名は、もう隠せない」
「構いません。
沈黙で守れる時期は、終わりました」
エレノアは振り返り、まっすぐにゼノを見た。
「これからは、正面から向き合います。
王都の権威と、虚構と……そして、過去と」
ゼノは短く笑った。
「なら、俺はお前の盾だ」
「ええ。
そして、わたくしはあなたの剣になります」
二人の視線が重なり、言葉はいらなかった。
遠くで、風が城壁を撫でる。
その音は、王都へと続く道を示すようでもあった。
戦は終わった。
だが、物語は――王都そのものへと向かい始めている。
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次話
第60話「王命の行方――選ばれぬ決断」




