第57話 絶望の朝――士気崩壊
第57話 絶望の朝――士気崩壊
王都軍の陣営に朝日が差し込んだ。
だが、その光が照らしたのは戦う兵の姿ではない。
ふらつき、青ざめ、目の下に深い隈を作り、
まるで亡者の行軍のような影ばかりだった。
「……寒い……昨日より寒く感じる……」
「飯が……ない……」
「寝てない……眠れない……」
声は弱く、命の色を失っていた。
魔術師団の一人が声を荒げる。
「何を怯えている!
ただの夜風ではないか!!」
しかし兵たちは、怯えた目で周囲を見回し、
まるで闇が生きているかのように背を震わせた。
「……夜風じゃないんだ……
誰かが……俺たちを見ていたんだ……」
「谷で消えた連中……あれ、自然じゃねぇ……」
「なぁ……本当に俺たち、生きて帰れるのか……?」
その時だった。
ひゅううう……
冷たい風が陣営をなでた。
ただの風。
だが、二日眠っていない兵士たちには、それが異様な“呻き声”に聞こえた。
「ひ……ひぃ……!」
「やめろ! その音を聞くな!」
恐怖が恐怖を呼び、
まだ何も起きていないのに、陣営は混乱の渦へと沈んでいった。
⸻
その報せは、午前中にはグレンヴィル前線へ届いた。
エレノアは密偵からの書簡を受け取り、淡々と目を通した。
ゼノが横から覗き込む。
「士気が……ほとんど崩壊していると?」
「はい。
王都軍の兵は、恐怖で“自分の影”にすら怯えている様子」
エレノアは書簡を閉じ、小さく息をつく。
「兵が恐れる時、それは自然な反応です。
しかし――士気そのものが崩れると、
軍は命令という骨格を失い、ただの“恐怖の塊”になります」
「つまり……いまの王都軍は、軍の形を成していない」
「ええ」
エレノアは立ち上がり、少しだけ空を仰いだ。
白い息がふっと消えていく。
「第三段階、“絶望”の準備をいたしましょう」
⸻
王都軍は午後になってもまとまりを欠いていた。
将校が怒鳴り、魔術師団が威圧をかけても、
誰も前に進もうとしない。
「起きろ! 行軍の準備だ!」
「嫌だ……嫌だ……前に行きたくない……!」
「あそこには何かいる……何かが……!」
ついには、ある中隊で決定的な事件が起きた。
「やめろ! 勝手に逃げるな!!」
「帰りたい……もう嫌だ……!」
兵士の一人が、荷物を捨てて走り出したのだ。
それを追いかけようとした仲間も、逆に恐怖で足が止まる。
「待て! 隊列を崩すな!!」
しかし逃げ出した兵士は、振り返りもせず叫んだ。
「もう無理だ!!
この山は呪われてるんだ!!
グレンヴィルには――化け物がいる!!」
叫び声は、静まり返った山に木霊した。
それが引き金となり、
周囲の兵たちも次々と腰を抜かしたように座り込む。
「もう勝てねぇよ……」
「俺たち、殺されるんだ……」
「何が討伐軍だ……ただの生贄じゃねぇか……!」
まさに、軍の崩壊だった。
⸻
夕刻。
その報せを受けたエレノアは、窓辺で静かに目を閉じた。
「……これで、王都軍は“勝つ理由”を完全に失いましたわ」
ゼノが深く息を吸い、彼女の横に立つ。
「お前の策が……ここまで敵の心を折るとはな」
「兵は、武器を持っているから強いのではありません。
“帰れる場所がある”と思うから戦えるのです」
「王都軍にはそれがない……」
「はい。
王都は彼らに、戦う理由を与えなかった。
わたくしたちはそれを突いただけですわ」
エレノアの瞳には、怜悧な光が宿っている。
だがその奥には、怒りとも哀れみともつかぬ情があった。
「……これで終わりではありませんわね」
「もちろんだ」
ゼノはゆっくりと頷く。
「だが、お前の策は見事だ。
兵を殺すことなく、軍を崩壊させた」
「わたくしは――“復讐”がしたいのではありませんの。
ただ……正義を取り戻したいだけ」
その言葉は、
氷の刃のように冷たく、しかし揺るぎない。
ゼノはしばらく彼女を見つめ、
静かに微笑んだ。
「エレノア。
お前は……あまりにも強い」
「いいえ、ゼノ様がいるからですわ」
「……そう言われると、戦より緊張するな」
エレノアは思わず笑みをこぼした。
その笑顔は、
霜の中に咲いた一輪の白い花のようだった。
そして夜は静かに降りていく。
崩れゆく王都軍の上に、
冷たい絶望の影が、静かに広がっていった。
⸻
次話予定
第58話「王都軍崩壊――退却の決断」




