第56話 恐怖の影――沈黙する夜
第56話 恐怖の影――沈黙する夜
その夜、山々は深い闇に沈んでいた。
雲が月を覆い、風すら止まり、焚き火の光だけがわずかに揺れる。
王都軍の陣営には、重苦しい沈黙が降りていた。
兵たちは皆、食料の不足と寒さに震えながら、
自分たちが“どこにいるのか”すら分からなくなりつつあった。
「……なぁ。聞いたか?」
「何をだ……?」
焚き火の影で、二人の兵がひそひそ声で話している。
「谷で消えた連中……まだ見つからないらしい」
「雪崩に巻き込まれたんだから、当たり前だろ……」
「違うんだ。
隊長が言ってた。『遺体がない』って」
「……は?」
「足跡も、血痕も、何もない。
まるで“消えた”みたいに……」
二人の顔は、火の光を受けて青ざめていた。
「お前、まさか……辺境の連中が何か仕掛けたって言うのか?」
「分からない。でも……この山はおかしい」
そのとき――
カラン……
金属が石に当たるような、微かな音が闇から響いた。
「……誰だ?」
「お、おい……応答しろ!」
声を上げても、返事はない。
音は一度きりで、その後の静寂が逆に恐ろしく感じられた。
「……やめよう。考えるだけ無駄だ。
明日はまた行軍だ。寝ておかねぇと……」
「寝られるわけないだろ……
こんな、不気味な夜に……」
兵たちの会話は、やがて凍りつくように途切れた。
彼らはまだ知らない。
その“金属音”は、
エレノアが仕掛けた“恐怖の第一段階”にすぎないことを。
⸻
同じ頃、グレンヴィルの前線観測所。
エレノアは白い外套に身を包み、闇を見つめていた。
ゼノが横に立ち、その表情は珍しく険しい。
「エレノア、“恐怖”を使うと言ったが……
まさか本当に幻惑具まで用意するとはな」
「必要なだけですわ」
エレノアは冷静に答える。
「敵は数で勝っています。
士気を奪わなければ、こちらに勝機はありません。
――恐怖は、最も効率の良い武器ですわ」
「だが、あまりに……容赦がない」
「王都が何をしたのか、ゼノ様もご存じでしょう?
わたくしを追放し、辺境の人々の命を実験道具のように扱おうとした。
わたくしは……忘れておりません」
夜風がふたりの間を通り抜ける。
エレノアの瞳は月の光がなくとも光を宿し、強く、揺らがなかった。
「彼らに必要なのは“痛み”ではありませんの。
“理解”ですわ。
己の罪を――理解させることこそ、復讐ではなく、償いへの第一歩です」
ゼノはその言葉に息を呑む。
(復讐心だけではない……
この女は、王都そのものを変えようとしている……)
「エレノア。お前は強い。
俺の想像以上に……強すぎるくらいにな」
「ゼノ様のためにも、強くなりましたわ」
ゼノは思わず言葉を失う。
(……そんな顔で言うな)
だが、その胸の熱さを隠すように、
軽く咳払いしながら言い直した。
「それで? 今夜の仕掛けは成功しそうか?」
「はい。
恐怖の第一段階――“姿なき敵”は成功です。
明日には王都軍中に噂が広まるでしょう」
「第二段階は?」
「“不眠”ですわ」
「不眠?」
「怖がらせ、眠らせない。
眠れぬ軍は、士気が落ち、判断が鈍くなります。
そして……」
「そして?」
「眠れぬ者は、“幻を見る”のです」
エレノアは微笑んだ。
夜に咲く氷花のような、静かな微笑み。
「恐怖は、積み上げるものですわ」
⸻
翌朝。
王都軍の陣には深い隈ができた兵士たちが立ち並んでいた。
誰も眠れなかった。
理由は分からない。
だが、影の中に何かがいる“気がしてならない”のだ。
「昨夜、俺のテントの横で……誰かが歩いてた」
「俺も聞いた……あれは、人じゃない……」
「何かが俺たちを見てる……!」
恐怖は、もはや軍を蝕む疫病のようだった。
その様子を密偵からの報告で聞き、
エレノアは静かに息を吐いた。
「そろそろ、第三段階が必要ですわね」
「第三段階?」
「“絶望”ですわ」
エレノアの瞳は、
王都全軍を見据えた戦女神のように凍てついていた。
⸻
次話
第57話「絶望の朝――士気崩壊」




