第51話 アシュレイ谷の罠
第51話 アシュレイ谷の罠
アシュレイ谷は、冬の終わりになると必ず霧が出る。
谷底には雪解けの水がたまり、地面は見た目以上に脆くなる。
だが、それを知らぬ王都の将校たちは、晴れた空だけを見て判断を下した。
「視界は良好! 最短距離で進むぞ!」
先頭部隊の軍靴が谷へ踏み込んだ瞬間――
ぬかるんだ雪がぐじゅりと沈み、嫌な音を立てた。
「ん……? ここ、妙に柔らかく――」
兵士の言葉を遮るように、馬が嘶いた。
蹄が沈み、兵士もまた体勢を崩す。
「おい……これ以上進むのは……!」
「黙れ! 魔術師団が支えてくれる!」
その魔術師団は、谷の入り口で冷ややかに兵を見下ろしていた。
黒紫のローブを翻し、鼻で笑う。
「愚かな兵ども。ぬかるみ程度で怯えるな。
我々が氷結魔術で地面を固めてやる」
男が杖を掲げると、青白い魔力が谷の一角へ広がった。
たちまち地面が凍り、氷の足場が形を成す。
兵たちはそれを見て安堵し、再び前進を始めた。
だが――
エレノアはその瞬間を、すでに見越していた。
⸻
一方、グレンヴィルの前線観測所。
白い外套を羽織ったエレノアが、双眼鏡越しに谷を見つめていた。
傍らではゼノが無言で立ち、風向きを読んでいる。
「王都軍……やはり氷結魔術を使いましたわね」
「奴らは決まって同じ手を使う。
足場を固めたつもりで、逆に“重くする”だけだ」
「ええ。氷の層は軽く見えるけれど……
水を含んだ谷底に“負荷”をかけるには、これ以上ない方法ですわ」
エレノアの目が細められる。
「もうすぐ……崩れます」
ゼノは彼女の横顔を見つめ、わずかに口角を上げた。
「相変わらず容赦がないな」
「わたくしを追放した王都へ、情けをかける義理はありませんもの」
その声音は柔らかいが、内に鋭い刃を隠している。
⸻
アシュレイ谷。
先頭から百名ほどが氷上に乗ったところで――
地響きが走った。
「な、なんだ……地面が……?」
「揺れて――!」
兵士たちが叫ぶより早く、地面がずぶりと沈んだ。
いや、沈んだのではない。
氷の層ごと、谷底が崩れ落ちたのだ。
「うわああああっ!!」
「助け――!!」
兵士も馬も武具も、ずるり、と泥と氷に飲まれた。
魔術師団が慌てて魔力を放つが、足場が崩れた谷では効果が薄い。
「氷結魔術を、逆に……利用された……!?
ありえん……! 王都が、辺境ごときに……!」
魔術師の叫びは、谷の底で虚しく響くだけだった。
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遠くの高台でその惨状を見ていたエレノアは、杖の先を静かに下げた。
「……これで第一段階は完了ですわ」
「谷を通る兵は、もう前に進めない。
後ろの部隊も渋滞で足止めされる。
狙い通りだ」
「侵攻速度を“王都の三分の一”まで落とせるはずです。
補給路も寸断できます」
ゼノは満足げに息を吐き、
まるで軍神を見つめるような目でエレノアに視線を向けた。
「お前がいて、本当に良かった」
「当然ですわ。わたくしは――あなたの軍師ですもの」
エレノアは小さく笑い、双眼鏡を降ろした。
「それに……もっと困るべきは、魔術師団の上層でしょうね」
「どうしてだ?」
「谷底に落ちた“あの百名”は、王都軍では貴重な人材。
兵の損失で最も怒るのは、本来指揮を執る貴族たちですわ」
ゼノは吹き出しそうになるのを堪えた。
「つまり……同士討ちに近い混乱が起きる」
「はい。
敵は自ら崩れます。
わたくしたちは、次の策に移るだけ」
風が二人の間を通り抜ける。
(王都軍……。
あなたたちがどれほど力を集めようとも――
私のこの“誇り”と“知略”は折れません)
エレノアの瞳には、炎ではなく氷のような冷たい光が宿っていた。
その背に、ゼノは確かな信頼を感じていた。
「エレノア。次の指示を」
「ええ――参りましょう。
第二段階、“霜鉄の鎖”の布陣を開始いたします」
ふたりは同時に踵を返し、戦いの次の局面へと進んでいった。
アシュレイ谷に響く兵の悲鳴は、
グレンヴィル連合の勝利の鐘に変わりつつあった。




