表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
419/427

第三章:木枯らしと薄雲の名残

 三州屋の店先を出ると、八ツ過ぎの柳橋は、日向の色だけが妙に明るく、川風は骨をこすって通った。板塀の隙から、さっきまで聞こえていた端唄の声が、急に遠のく。松吉は襟をすぼめて、半七の顔色をうかがった。


「親分、どうしますね」


「強情だと思うなら思え」三河町の親分は、口の端だけで笑った。「おれは、まだ思い切れねえ。殺されたのはお俊で、やったのは万力だ」


「だが、あの首は薄あばたがあるって……」


「白粉で消えねえ疱瘡痕なんぞ、よほどの古傷だ。見た目を頼りにして、肝心を外すと、あとで自分の首が寒くなる」


 半七はそう言い捨てて、橋の上で松吉を呼び止めた。


「これから深川の六間堀へ行け。柘榴伊勢屋の様子を探って来い。碁盤が伊勢屋から出たもんかどうか、それと、伊勢屋の亭主の人柄だ。早口で済む用じゃねえ」


「ようがす」


 松吉が川向うへ消えると、半七はひとまず神田へ引き返した。木枯らしがまた吹き出して、表通りの乾いた砂が、下駄の鼻緒へ細かく噛みつく。時世は文久三年、世の中がざわついている。辻の噂も、火事の煙も、浪人の眼つきも、どれもが尖っていた。こんな折に、女の生首を碁盤へ載せて武家の門前へ置くなど、ただの見せ物で済むはずがない。


 三河町の家へ戻ると、長火鉢の炭が赤く起きていた。お仙が、薄い大根の味噌汁を温め直している。味噌の匂いが、外の冷たさをしばらく忘れさせた。


「遅かったね」


「ちょいと面倒な臭いがする。今夜は、余計な話を聞かねえ方がいい」


 半七は膳に向かいながらも、頭の中へ獲物を並べた。首の女の顔、碁盤の古びた艶、用人のよそよそしい言い回し、柳橋の船頭の口からこぼれた、万力の刀の一件。情況証拠は、ばらばらに見えて、どこか一筋でつながっている。つながる先が、まだ薄雲のように見えないだけだ。


 夜が更けるころ、木枯らしは一層強くなり、障子がかすかに鳴った。


 明くる朝の五ツすぎ、松吉が息を白くして戻って来た。肩のあたりに霜が残っている。


「親分。やっぱり、伊勢屋でござんす」


「言え」


「柘榴伊勢屋には、先代から薄雲の碁盤ってえ品があるそうで……。それを庫へ置くと鼠が出ねえ、なんて噂まで立っていやす。近所の同商売が、口をそろえていやした」


「鼠が出ねえ、か」


 半七はうなずいた。相生町二丁目の酒屋の番頭が、何気なく言った言葉が胸の底で音を立てる。お俊は鼠を嫌った。嫌い方が尋常でなかったなら、因縁付きの道具へすがるのも、人情の筋である。


「伊勢屋の亭主はどういうつらだ」


「由兵衛は四十ぐらい。女房のおかめが三十五。子はありません。万力をたいそう可愛がってるんで、養子にするんじゃねえかって、近所じゃ噂していやすが……」


「万力が、旦那の囲い者を殺す理屈は、そこだけじゃ足りねえ」


 半七は、煙管を畳へ置いた。


「この一件はな、あの武家屋敷の次男坊が絡んでいる匂いがする。小栗の弟、銀之助だ。年は二十二。深川の旗本へ養子に行ってるって話だが、遊び癖が抜けねえと見た」


「銀之助が……」


「万力の刀を引ったくったのが誰か。銀之助かどうか。銀之助がお俊のところへ出入りしていたかどうか。そこを洗え。おめえの足なら、昼までに二つは拾える」


「わかりました。すぐ行って来やす」


 松吉が飛び出すと、半七も外へ出た。朝の空は澄み切って、薄い日が町の屋根をこする。こういう日は、かえって人の心が荒れる。ちょっとした言葉の行き違いが、刃物になる。


 本所へ回って小栗の屋敷の用人、淵辺新八に会うと、男は相変わらず「存じませぬ」を盾にしたが、半七が少し踏み込んだ口をきくと、内々の困り顔を隠しきれなくなった。銀之助は放蕩が過ぎる。養家とも折り合いが悪い。披露も延びた。そんなことを、用人は渋々ほどいてみせた。だが、お俊の名には手を出さない。触れれば、屋敷の面目が汚れるとでも思っているのだろう。


 半七はそれ以上を詰めずに、帰り道で相生町へ足を向けた。お俊の家の隣り、竹本駒吉の稽古所である。格子をあけると、若い女師匠が出て来た。義太夫節の師匠というのは、舞台裏の人間をたくさん見ている。江戸の女の商売の綾も、武家の道楽の臭いも、鼻が利く。


「御用で……」と半七が言うと、女は表情を改めて中へ通した。茶の湯気が、畳の冷えをほぐす。壁際に、浄瑠璃本が几帳面に積んである。こういう家は、音曲の匂いが染みている。むしろそれが、女の身を守る薄衣になることもある。


「隣りのお俊だが、伊勢屋はちょいちょい来ていたな」


「そうです」


「ほかに、若い男……お武家のような奴が来やあしねえか」


 駒吉は一瞬ためらい、それから観念したように言った。


「ええ、時々に。粋な道楽肌の方でした」


「泊まりは」


「泊まることは無かったようです。四ツ過ぎには帰っていらしたと思います」


「女中は」


「お直さんです。深川の大島町だとか……。でも、引っ越しのときは姿を見ませんでした。前の日あたりに暇を取ったって、あとで聞きました」


 女中を先に切る。荷をまとめる。引っ越し先を急に変える。こういう段取りは、逃げる者の手並みである。


 半七は、礼として白粉代を少し置き、稽古所を出た。回向院えこういんの方へ歩くうち、相撲の呼び出し三太に出逢った。回向院は、勧進相撲の本場所が開かれる寺で、土俵も番付も、この境内から広がってゆく。呼び出しは、ただ名前を呼ぶだけの役ではない。力士の身辺の噂にも、四股名の裏にも通じている。


「親分、お寒うございます」


「冬場所は景気が良かったそうだな」


「お蔭さまで」


「いいところで会った。ちょいと訊きてえ。万力甚五郎のことだ」


 三太の顔が、ほんの僅かに曇った。半七はそれを見逃さず、境内の隅へ連れ込んだ。線香の匂いが風に切られ、遠くで鳩が羽を打つ。半七は、ここから先の言葉が、薄雲の正体を剥ぐ刃になるのを、腹の底で知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ