第三章:木枯らしと薄雲の名残
三州屋の店先を出ると、八ツ過ぎの柳橋は、日向の色だけが妙に明るく、川風は骨をこすって通った。板塀の隙から、さっきまで聞こえていた端唄の声が、急に遠のく。松吉は襟をすぼめて、半七の顔色をうかがった。
「親分、どうしますね」
「強情だと思うなら思え」三河町の親分は、口の端だけで笑った。「おれは、まだ思い切れねえ。殺されたのはお俊で、やったのは万力だ」
「だが、あの首は薄あばたがあるって……」
「白粉で消えねえ疱瘡痕なんぞ、よほどの古傷だ。見た目を頼りにして、肝心を外すと、あとで自分の首が寒くなる」
半七はそう言い捨てて、橋の上で松吉を呼び止めた。
「これから深川の六間堀へ行け。柘榴伊勢屋の様子を探って来い。碁盤が伊勢屋から出たもんかどうか、それと、伊勢屋の亭主の人柄だ。早口で済む用じゃねえ」
「ようがす」
松吉が川向うへ消えると、半七はひとまず神田へ引き返した。木枯らしがまた吹き出して、表通りの乾いた砂が、下駄の鼻緒へ細かく噛みつく。時世は文久三年、世の中がざわついている。辻の噂も、火事の煙も、浪人の眼つきも、どれもが尖っていた。こんな折に、女の生首を碁盤へ載せて武家の門前へ置くなど、ただの見せ物で済むはずがない。
三河町の家へ戻ると、長火鉢の炭が赤く起きていた。お仙が、薄い大根の味噌汁を温め直している。味噌の匂いが、外の冷たさをしばらく忘れさせた。
「遅かったね」
「ちょいと面倒な臭いがする。今夜は、余計な話を聞かねえ方がいい」
半七は膳に向かいながらも、頭の中へ獲物を並べた。首の女の顔、碁盤の古びた艶、用人のよそよそしい言い回し、柳橋の船頭の口からこぼれた、万力の刀の一件。情況証拠は、ばらばらに見えて、どこか一筋でつながっている。つながる先が、まだ薄雲のように見えないだけだ。
夜が更けるころ、木枯らしは一層強くなり、障子がかすかに鳴った。
明くる朝の五ツすぎ、松吉が息を白くして戻って来た。肩のあたりに霜が残っている。
「親分。やっぱり、伊勢屋でござんす」
「言え」
「柘榴伊勢屋には、先代から薄雲の碁盤ってえ品があるそうで……。それを庫へ置くと鼠が出ねえ、なんて噂まで立っていやす。近所の同商売が、口をそろえていやした」
「鼠が出ねえ、か」
半七はうなずいた。相生町二丁目の酒屋の番頭が、何気なく言った言葉が胸の底で音を立てる。お俊は鼠を嫌った。嫌い方が尋常でなかったなら、因縁付きの道具へすがるのも、人情の筋である。
「伊勢屋の亭主はどういう面だ」
「由兵衛は四十ぐらい。女房のおかめが三十五。子はありません。万力をたいそう可愛がってるんで、養子にするんじゃねえかって、近所じゃ噂していやすが……」
「万力が、旦那の囲い者を殺す理屈は、そこだけじゃ足りねえ」
半七は、煙管を畳へ置いた。
「この一件はな、あの武家屋敷の次男坊が絡んでいる匂いがする。小栗の弟、銀之助だ。年は二十二。深川の旗本へ養子に行ってるって話だが、遊び癖が抜けねえと見た」
「銀之助が……」
「万力の刀を引ったくったのが誰か。銀之助かどうか。銀之助がお俊のところへ出入りしていたかどうか。そこを洗え。おめえの足なら、昼までに二つは拾える」
「わかりました。すぐ行って来やす」
松吉が飛び出すと、半七も外へ出た。朝の空は澄み切って、薄い日が町の屋根をこする。こういう日は、かえって人の心が荒れる。ちょっとした言葉の行き違いが、刃物になる。
本所へ回って小栗の屋敷の用人、淵辺新八に会うと、男は相変わらず「存じませぬ」を盾にしたが、半七が少し踏み込んだ口をきくと、内々の困り顔を隠しきれなくなった。銀之助は放蕩が過ぎる。養家とも折り合いが悪い。披露も延びた。そんなことを、用人は渋々ほどいてみせた。だが、お俊の名には手を出さない。触れれば、屋敷の面目が汚れるとでも思っているのだろう。
半七はそれ以上を詰めずに、帰り道で相生町へ足を向けた。お俊の家の隣り、竹本駒吉の稽古所である。格子をあけると、若い女師匠が出て来た。義太夫節の師匠というのは、舞台裏の人間をたくさん見ている。江戸の女の商売の綾も、武家の道楽の臭いも、鼻が利く。
「御用で……」と半七が言うと、女は表情を改めて中へ通した。茶の湯気が、畳の冷えをほぐす。壁際に、浄瑠璃本が几帳面に積んである。こういう家は、音曲の匂いが染みている。むしろそれが、女の身を守る薄衣になることもある。
「隣りのお俊だが、伊勢屋はちょいちょい来ていたな」
「そうです」
「ほかに、若い男……お武家のような奴が来やあしねえか」
駒吉は一瞬ためらい、それから観念したように言った。
「ええ、時々に。粋な道楽肌の方でした」
「泊まりは」
「泊まることは無かったようです。四ツ過ぎには帰っていらしたと思います」
「女中は」
「お直さんです。深川の大島町だとか……。でも、引っ越しのときは姿を見ませんでした。前の日あたりに暇を取ったって、あとで聞きました」
女中を先に切る。荷をまとめる。引っ越し先を急に変える。こういう段取りは、逃げる者の手並みである。
半七は、礼として白粉代を少し置き、稽古所を出た。回向院の方へ歩くうち、相撲の呼び出し三太に出逢った。回向院は、勧進相撲の本場所が開かれる寺で、土俵も番付も、この境内から広がってゆく。呼び出しは、ただ名前を呼ぶだけの役ではない。力士の身辺の噂にも、四股名の裏にも通じている。
「親分、お寒うございます」
「冬場所は景気が良かったそうだな」
「お蔭さまで」
「いいところで会った。ちょいと訊きてえ。万力甚五郎のことだ」
三太の顔が、ほんの僅かに曇った。半七はそれを見逃さず、境内の隅へ連れ込んだ。線香の匂いが風に切られ、遠くで鳩が羽を打つ。半七は、ここから先の言葉が、薄雲の正体を剥ぐ刃になるのを、腹の底で知っていた。




