第二章:柳橋の三州屋
角屋の番頭が、何気なく口にした一言が、半七の胸の底で、火打石の火花のように散った。
柘榴伊勢屋の亭主が、柳橋へ出て船遊びをする。しかも、その遊びに、引かされたお俊も同道したことがある――。
相生町一丁目の貸家を、ひととおり改めても、床下にも押入れにも、これといった獲物はない。鼠の穴ひとつ見えない空家である。戸の隙から入る冬の風が、畳の目を舐めて行った。半七は門口へ出ると、ふり返って空家を一度だけ見たが、もうそこには興味を残さなかった。
「番頭の話は、天の授けだ」
半七はそう言って、松吉の肩を軽く押した。松吉は寒そうに鼻をすすり、まだどこかで「例の首はお俊ではない」という気持ちが捨て切れぬ顔をしている。
「だが親分、あばたが――」
「おめえ、顔の皮っつうものは、白粉ひとつで化ける。いまは、口の軽い船宿をあたる方が早え」
半七はそう言い切って、竪川の冷たい水の匂いを背に受けながら、柳橋へ向かった。江戸の冬は雨が少ない年で、空は青いが、風は骨に沁みる。道々、煮売屋の湯気が立っても、それはただ白く見えるばかりで、身体の奥までは温めてくれない。松吉は黙って附いて来たが、半七の足どりが妙に軽いのを見て、口を挟むのをやめた。
柳橋のあたりは、昼のさなかでも水の気配が濃い。川べりの板の匂い、船板の油、女の鬢付けの匂い、酒の匂いが、寒気のなかで混ざり合っている。船宿の軒先には、長半纏を着た若い船頭が腰をかけ、犬ころを相手にふざけていた。
「おい、よしねえよ」
半七が笑って声を掛けると、船頭は顔を上げ、すぐに膝を正した。徳次という男である。船頭にしては言葉がやわらかく、客の顔を覚えるのがうまい。こういう手合いは、噂話も早い。
「親分、お寒うござんす。まあ、こっちへ」
「上がるほどじゃねえ。店さきで聞きてえことがある」
徳次は、女中に火鉢を運ばせ、茶を出させた。火鉢の炭が、ぱちりと鳴った。薄い茶の湯気が、指の先へからみつく。
ちょうどそのとき、托鉢僧が店さきへ来て、鉦を叩いた。金属の乾いた響きが川風にさらわれ、向こう岸へ消えてゆく。隣の二階では、端唄の稽古らしく、細い声が途切れ途切れに聞こえていた。江戸の町は血なまぐさい噂の多い年でも、こういう小さな日常を、しぶとく続けている。
「六間堀の伊勢屋は、この頃も出かけて来るかえ」
「ええ、お俊さんと時々に」
徳次は、何でもないことのように言ってから、自分の言葉の具合を測るように半七の顔をうかがった。
「このあいだも枯野見だと申して、上手までお供をいたしやした。けれど、枯野見なんてのは、今どきは流行りませんね。雪見も、だんだん少なくなりました」
「通人が減ったんだろう」
半七は茶をすすり、火鉢へ手をかざした。徳次は笑い、話の糸をつづける。
半七は、伊勢屋が贔屓にしている相撲を訊いた。徳次は待っていましたとばかりに、名を出した。
「万力甚五郎で」
「二段目だな」
「力があります。まったく万力で……。近いうちに幕へ入るでしょう」
相撲取りに、商人が肩入れする。江戸では珍しいことではない。武家の抱え屋敷が力士を持つこともあるし、町人が金を出して面倒を見ることもある。力士にしてみれば、土俵の勝ち負けだけでは飯は食えぬ。贔屓の懐が、背骨になる。その背骨を折るような出来事があれば、力士は土俵の外で転ぶ。
「伊勢屋のほかに、抱え屋敷はねえのか」
「十万石の抱え屋敷がありやしたが、お出入りを止められまして。いまは伊勢屋が第一の旦那場で」
徳次はそこで少し声を落とし、春の花見どきの一件を語り出した。
その年の三月、伊勢屋の由兵衛は、万力を連れて三州屋へ来た。花は盛り、空はよく晴れて、芸者はみな出払っていた。馴染のお俊も留守である。由兵衛は野暮ではないから、怒りもせず、ほかの芸者二人と万力を連れて屋根船に乗り、徳次に棹を持たせて大川を上った。
向島から堤へ上がり、桜を見、日が傾くころに戻って来ると、桟橋のきわは船で混み合い、伊勢屋の船は思うように着けられぬ。声を掛け合い、前の船の舳へ渡って行くことになった。
由兵衛と芸者ふたりは挨拶して先に渡ったが、最後に出た万力は、船の中を横目で見ただけで、挨拶もせずに渡り過ぎようとした。そこに二人の侍と、一人の芸者が乗っていた。花見帰りで皆酔っていたらしく、侍のひとりが声を掛け、挨拶をして行けと言った。それでも万力が知らぬ顔で行き過ぎると、もうひとりの侍が衝と寄って来て、万力の腰の刀を鞘ぐるみ引き抜いた。
そして船頭に「早く出せ」と怒鳴る。混み合うなかで棹は思うように張れぬが、それでも船はじりじりと離れた。刀を取られた万力は、顔色を変えた。その刀が、十万石の抱え屋敷からの拝領物だったからである。力士が刀を差すのは、見栄でもあるが、屋敷の威を借りる意味もある。それを奪われるのは、土俵で負けるより痛い。
由兵衛が戻り、万力に謝れと言う。万力も頭を下げ、ついには桟橋へ両手をついて詫びた。侍は胸が晴れたのか、刀は船頭の手から無事に戻された。由兵衛は船頭へ祝儀を渡し、ことはその場で収まった――ように見えた。
「ところが、その噂が屋敷へ入っちまいまして。抱え屋敷の面目にかかわるってんで、万力は出入りを止められやした」
徳次は顔をしかめた。半七は、徳次の言葉の運びに、わざとらしさがないのを見て取った。こういう話は、盛る者は盛る。徳次は、必要なところだけを抜き出している。
松吉が口を挟んだ。
「万力ってのも愛嬌がねえ。最初に挨拶をしねえから、事が大きくなる」
「それがねえ、松さん」
徳次は首を振って、もう一段、奥を明かした。
「万力も礼儀知らずじゃねえんですが、ちょいと面白くねえことがあって。相手の船に、お俊さんが乗り合わせていたんで……」
半七の目が、わずかに細くなった。
芸者稼業で、誰の船に乗ろうと不思議はない。だが、伊勢屋の馴染のお俊が、ほかの客の船にいる。贔屓の力士が、それを見てむっとする。そこへ、酔った侍がからむ。刀を抜き取る手際があまりに早い。あれは喧嘩慣れしている――徳次がそう言った意味も、半七にはよく分かった。
「その侍は、何者だ」
「ひとりは本所の御旅所の近所に屋敷を持っている平井善九郎で、刀を取ったのは連れの方でした。年頃は二十一、二で、小粋な人柄で」
半七は、茶碗を置いた。口の端に笑いを残しながらも、目の奥は動いている。松吉は、その横顔を盗み見て、背中へ冷たいものが走るのを感じた。半七の勘が、どこへ向かっているのか、松吉にも見えはじめたからである。
徳次はさらに言った。
「お俊さんに、あばたはありませんよ。土地でも容貌好しの方で」
松吉が、ふたたび肩を落としたように半七を見た。だが半七は、その言葉を否定も肯定もせず、火鉢の炭を見つめたまま、煙管を指で弾いた。炭の赤が、いっそう深くなったように見えた。
柳橋の水面は、薄い冬日を受けて鈍く光っている。噂は川を渡る。人の情も、川を渡る。だが、渡り切れずに沈むものもある。
半七は、ひと息ついて立ち上がった。松吉も黙って立つ。
この柳橋で拾ったものが、どこまで本所の門前へ届くか。半七は、もう一歩だけ、踏み込むつもりでいた。




