第一章:慈作寺《じさくじ》の仏前
文久三年の冬は、雨が少なかった。川筋の土は乾き切り、路地の砂ぼこりが風に煽られて、町の空気まで痩せている。寒さはただ冷たいのではなく、乾いた刃で皮膚を撫でられるように、じわじわと骨へ入り込んで来た。
二十四日の朝、まだ霜の白さが石の縁に残っているうちに、三河町の親分・半七は、子分の松吉を連れて本所の方角へ出た。昨夕、小栗昌之助の屋敷の用人・淵辺新八が駆け込んで来て、「屋敷の門前に女の生首が据えられた。碁盤の上に乗せてある」と息もつがずに訴えた。その検視も済み、首と碁盤とは亀戸の慈作寺に預けたという。用人の顔色は、武家の体面という鎧の下で、露骨に動揺していた。
慈作寺は門前町の賑わいが一段落ちるあたりにある。冬の朝の寺は、香の匂いが冷えた空気にまじって、ひときわ冴える。半七は庫裏へ名を告げると、住職に取り次がれ、奥へ通された。茶と、干菓子ほどの小さな饅頭が出たが、半七はそれを口に運ぶ前に、用件を言った。
「昨夕の一件で、預け物を改めたい。お上の手先じゃねえが、屋敷から頼まれて来た」
寺は疎略には扱わない。僧も、武家筋の厄介事と見て慎重である。やがて本堂の仏前から、白木の小箱が運ばれて来た。箱の蓋に蝋が垂れて、急ごしらえの気配がある。そのそばに、碁盤が据えられていた。四方が黒く艶を帯び、古い手の仕事が残っている。半七は、まだこの碁盤の来歴など知る由もない。ただ、質のよい榧の木地の匂いが、寒い堂内でかすかに立つのを感じた。
縁側の明るいところへ出して、半七と松吉は二つを改めた。箱の中の首は、血の乾いた匂いと、冷えた生の匂いが入りまじっている。年ごろは二十二、三。顔に薄い痘痕があり、しかし肌合いは荒れていない。髪は散り、どの髷かは判然としないが、素人の女の乱れ方ではない。半七の胸の底で、どこかで見た顔だという感触が、じくじくと動いた。
「親分、堅気じゃなさそうで」
松吉が言うと、半七は黙ってうなずいた。住職にも幾つか訊ねた。寺の者は昨夕、役人の指図で預かっただけで、屋敷との因縁などは知らない。淵辺の話と変わるところはない。
「いずれまた来る」
半七はそう言い残し、松吉を連れて門前へ出た。霜どけの泥が草履にまとわりつく。風は朝より少し凪いだが、芯の冷たさは変わらない。
「もう午だ。そこらで飯にしよう」
二人は近くの小料理屋の二階へ上がった。狭い階段の軋み、炭火の匂い、煮物の湯気が、寒さで固くなった身体をほどいていく。燗酒が徳利で出ると、酒の湯気に醤油の香りがまじり、松吉は思わず息をついた。
「親分。どうです、見込みは」
「まだ見当が付かねえ。だが、首だけでも手掛かりはある。あの女は、どこかで見たような気がするんだが……」
半七は煙管を置いた。指先が冷えて、雁首の金具が妙に冷たく感じられる。
「それですよ。わっしも見た気がします」
二人の勘は一致した。しかし、それが誰で、どこから来たかは、霧の中だ。半七は小鉢の里芋を箸で割り、煮含めた甘みを口へ運びながら、ふっと言った。
「まず、小栗の屋敷に係り合いがあるかどうかだ。それと、どうして碁盤に首を乗せた。あんなものは、わざわざ人目を引くための細工だ」
「小栗の旦那は碁を?」
「嫌いだそうだ。用人も住職もそう言う。勝負をしたためしもねえと」
半七は、碁盤という道具の重さを思った。盤だけでも嵩張る上に、その上へ首を乗せて運ぶ。夜道に二人がかりでなければ難しい。しかも武家屋敷の表門前に据えたのは、ただの捨て置きとは違う。恨みか、見せしめか、あるいは呼び水か。半七は、酒を一口含み、喉の奥で熱を確かめた。
「昼間から錨を卸しちゃいられねえ。出るぞ」
二人が亀戸の通りへ出ると、天神橋の袂で、二人連れの女と行き逢った。柳橋の芸者、お蝶と小三である。手拭いで口元を覆い、冬の陽に白粉の白さがひときわ目立つ。芸者たちは半七らを見て、軽く会釈した。
「どこへ行く。天神さまかえ」
「あしたはお約束で出られませんから、繰り上げて今日お参詣に」
お蝶が笑うと、半七はふと、古い記憶の糸口をつかむように、声を落とした。
「お俊は相変わらず達者かえ」
「あら、親分。お俊ちゃんは、この六月に引きましたよ」
「誰に引かされて、どこへ行った」
「深川の柘榴伊勢屋の旦那に。相生町一丁目に家を持ってます」
半七は、相生町一丁目という地名を舌の上で転がした。回向院の近所だ。昨日の屋敷からも遠くない。
「お俊は薄あばたがあったかね」
「いいえ。評判の器量よしで、そんなのありませんわ」
小三もうなずいた。女の言葉の確かさは、半七の胸の見立てを、わずかに外へ押しやった。しかし、外れたからといって手を引くのは早い。半七は芸者たちと別れ、松吉を促して歩き出した。
「親分、やっぱり他人の空似じゃ」
「諦めるな。回向院前へ廻って、お俊の様子をよそながら見届ける」
吉良屋敷跡の松坂町を横に見て、一つ目の橋ぎわへ出る。町は冬の昼でも、川筋へ寄るほど陰が濃くなる。相生町一丁目で訊ね当てた家は、すでに空家となり、貸家の札が斜めに貼られていた。
「やあ、空店だ」
松吉が声を上げる。半七は眉を動かしただけで、隣家へ目を向けた。格子の向こうに、義太夫の女師匠がいるという。松吉が呼びかけ、しばらく言葉を交わして戻って来た。
「きのう、急に世帯を畳んで、どこへか引っ越しちまったそうです。挨拶もなしで、知らねえ男が道具をどしどし片付けて……。お俊の姿は見えなかったらしい」
「家主は」
「二丁目の角屋って酒屋だと」
角屋の帳場は、酒の匂いと湿った木の匂いがまじっている。番頭は、つい昨日のことを、商人らしく勘定の順に話した。二、三日前から引っ越しの話はあり、昨日の朝、知らない男が来て家賃も酒代もきれいに払って行った。行先は浅草の駒形だと言った、と。
「店請人は誰だ」
「伊勢屋の番頭、金兵衛という者で」
半七は、番頭の言葉の端に引っかかったものを、すぐには掴まずに置いた。商いの口は、ときに肝心を薄める。だが、今は拾えるものを拾うしかない。
「お俊はどんな女だった」
「愛嬌があって、近所の評判も悪くありません。――ひどく鼠が嫌いで、あの家に鼠が出て困る、とよく言ってました」
鼠。半七は、心のどこかでその言葉を鳴らしてみたが、まだ音は合わない。お俊の空家も改めた。畳に残る家具の跡、壁の煤、床の板の冷え具合。引っ越しというより、急な掻き消しに見えるところがある。松吉は縁の下まで覗き込んだが、獲物はない。
外へ出ると、川風がふたたび頬を切った。空は薄く曇り、日があるのに影が淡い。半七は、門前で立ち止まって、相生町の通りを見渡した。女の首が碁盤に乗せられていた。空家が一夜で出来た。武家屋敷の前に据えられたのは、偶然ではない。
「松吉、帰り道だが――柳橋へ廻るぞ。伊勢屋とお俊を、船筋から洗う」
松吉は「へい」と答え、親分の背に付いた。冬の風はなお止まない。だが、半七の足どりには、止まらぬ理由があった。




