第二章:庫裏の土間と消えた死骸
俊乗が提灯を提げて寺社方へ走ったあと、半七と亀吉は門をくぐって高源寺へ入った。境内は広いが、人声がない。露店の柱にした竹や、提灯を結んだ縄が木の根に残っていて、賑わいだけが先に通り過ぎた跡を見せていた。
風雨あとの湿り気が、土の匂いを深くして、百日紅の葉にまだ雫が残っている。
庫裏へ案内を乞うと、ほどなく老僧が現れた。住職の祥慶である。六十余り、白髪まじりの眉が長く、声は低いが、言葉づかいが整っていた。寺の不手際を詫びる調子にも、うわべの慌ては見えない。
「どなたもお役目ご苦労に存じます。思いもよらぬ椿事の上に、寺中の者どもの不調法、まことに申し訳がござりません」
半七は、地蔵を踊らせて賽銭を集めるような寺なら、坊主も荒いと踏んでいた。その見立てが外れたので、いったん胸の内で舌を打った。人相というのは、当たる時も外れる時もある。ただ、外れた時こそ用心が要る。
「こちらのお寺は、お幾人で?」
「わたしのほかに、俊乗。まだ若年ですが、役僧を勤めさせております。ほかに納所の了哲、小坊主の智心。それから寺男の源右衛門。合わせて五人でございます」
納所というのは、寺の台所や出納を受け持つ役で、檀家の出入りや米銭の始末に眼が届く者である。半七はそこへ針を打った。
「その寺男の源右衛門というのは幾つで、どこの生まれだえ」
「二十五。秩父の大宮在の生まれでござります。門前の花屋、定吉の甥で、叔父を頼って出府いたした者で……寺男に不自由しておりました折、定吉の口入れで一昨年から勤めさせております」
「無事に勤めているのか」
祥慶の眉が、わずかに曇った。
「それが……十日以前から戻りませぬ。十四日の夕方、ちょっとそこまで行って来ると申して出ましたきり。叔父の定吉も心配して探しておりますが、在所が知れず……本人の所持の品は残っておりますので、駈け落ちとも思われず、皆、不思議がっております」
半七は、いまの言いぶりを覚えた。駈け落ちという言葉が、どこか場違いに軽い。
「門前の地蔵が動いた――踊ったというのは、本当で?」
「踊ったと申すかどうかは存じませぬが、地蔵尊が動いたのは本当で、わたくしも眼のあたりに拝みました」
「それを拝めば、コロリ除けになるという噂も立ったな」
「いや、それは世間の方々が勝手に申したことで、仏の御心はわかりませぬ」
半七はそれ以上、地蔵のことは追わなかった。今夜は、女の死骸のほうが重い。
ふたりは庫裏へ回った。土間の一角に荒筵が敷いてある。そこへ死骸を寝かせた跡だと、了哲が指さした。了哲は顔つきの冴えぬ男で、口を開けば言い訳が先に出る。小坊主の智心は、枯れ枝を束ねる手を止めず、眼だけを働かせている。年の割に体が大きい。黙っているが、ぼんやりはしていない。
「女の死骸は、いつ見えなくなった」
「八ツ(午後二時)過ぎで……拙僧が便所へ立ちました留守のあいだで」
「そんな短い間に、死んだ女が起き上がって逃げると思うか」
「それは……思われませぬ。恐らく、何者かが……」
了哲の眼が、うしろ山のほうへ滑った。高源寺の背後は小高い丘で、古木と雑草が混み、夕方になると獣の匂いがする。土地の者が「山」と呼ぶのも無理はない。その山を越えると、旗本屋敷が二、三軒つづく横町へ出る。昼でも寂しく、用のない者は近寄らぬ道だ。
半七は、森の梢を仰いだ。人が忍び込んで、死骸を担ぎ出すことは出来る。だが、なぜ一度、地蔵堂へ縛り付けて見せた。見せて騒がせ、検視まで受けておきながら、いまさら奪い返すのは筋が通らぬ。筋が通らぬことほど、江戸ではよく通る。だが、そこには必ず「弱味」が絡む。
ゆう鴉が一羽、枝を渡って鳴いた。まるで考えを嗤うような声である。
その日の詮索は、まずそこまでで切り上げた。門を出ると、花屋の前にお住が立っていた。奥の行燈の下で、五十前後の男が飯をかき込んでいる。定吉であろう。近所の評判どおり、吃りで、こちらへ声を掛けるにも息が詰まるらしい。お住の眼が落ち着かないのは、今朝の騒ぎだけのせいではないと、半七は思った。
小半丁ほど歩いたところで、亀吉が訊いた。
「親分、どうです」
「あの住職、いやに殊勝らしく構えている。番狂わせみてえだが……おれは、あいつはやっぱり狸坊主だと思う」
「寺男の源右衛門ってのは?」
「駈け落ちだのと口で言っても、もう此の世にはいねえだろう」
「坊主どもが殺ったんですかね」
「手を下したわけでもあるめえ。だが、生きちゃあいねえ気がする。亀、おめえは門前町をうろついて、寺の者どもについて聞き込みをしてくれ。それから小坊主――智心だ。あいつの身許と行状を洗え。眼つきが気に入らねえ」
亀吉に小遣いを握らせて別れ、半七は神田へ戻った。地蔵堂の抜け穴の行き止まりを思い出しながら、女の死骸の「消え方」を頭の中で何度も並べ替えた。雨戸を閉めて寝たが、夜が浅い。
暁け方に大雨が来て、朝は嘘のように晴れた。亀吉が渋い顔で戻って来た。
「門前で蕎麦屋へ入ったり、小料理屋へ入ったりして、出来るだけ手を伸ばしてみましたが……掘り出し物がありません」
「大体、どんなことだ」
「祥慶は京都の大きい寺で修行したこともあって、学問も出来るし、字もよく書く。檀家の受けもよく、悪い噂はねえ。俊乗って坊主は男がいいので、門前町の若い女が騒ぐが、これも悪い噂はねえ。小坊主の智心は、年の割に体は大きいが、薄ぼんやりで目立った話はない。了哲は足りねえ奴だが、酒を飲む」
「花屋の親子は」
「定吉は評判の正直者で、ひどい吃り。娘のお住は親孝行で、馬鹿じゃねえそうで」
亀吉が「揃いも揃って好人物で」と投げやりに言いかけた時、ふと思い出したように声を落とした。
「ひと月ほど前、門前町のはずれの塩煎餅屋のおかみさんが、茗荷谷へ用足しに行く途中で、お住を見かけた。お住は二十歳ぐれえの、小綺麗な田舎娘と一緒に歩いていたそうです」
半七の眼が細くなった。
「その田舎娘は、縛られていた女か」
「それが……かみさんは、あの死骸を見るのも忌だと言って覗きにも行かなかったので、同じ女かどうだか判らねえと。顔立ちが肖ていて、ちょいと見た時は姉妹かと思ったって――」
「おい亀、しっかりしてくれ」
半七は笑ったが、笑いは短かった。
「その種が挙がってるなら、もうひと息だ。よし。おれがもう一度出かける。おめえも一緒に来い」
亀吉は、やっと顔を明るくした。
「出かけますかえ」
「むむ。今度は、門前の土の窪みも見てやる」
半七は羽織を取り、紐を結び直した。小石川の山風が、また何かを隠している。




