第一章:小石川高源寺の夕闇
門前で女の死骸が見つかったとなれば、寺の側も知らぬ顔は出来ない。高源寺から寺社方へ訴え出て、役人の検視を受けたのは当然であった。
女は縊られて死んでいた。死体は石地蔵の背に凭れるように両足を投げ出し、荒縄を幾重にも巻き付けられている。その縄は首にも掛かっていたが、そこで絞め殺されたのではない。すでに絞め殺した死骸を運び込み、縛られ地蔵の作法に似せて結びつけたと見てよい。検視の役人も、まずそう推した。
身もとが判らねば、先へ進まない。寺も近所も「そんな娘は知らない」と言い、持ち物といえば木綿の巾着に小銭が少しあるばかりで、名を証する品もない。風俗を見れば江戸の娘らしくもない。死骸はひとまず寺へ預けられ、申し出を待つほかはなかったが、他殺となれば捨て置けぬ。
八丁堀同心の高見源四郎が、神田三河町の半七を呼びつけたのは、その日のうちである。
「高源寺の一件は、おめえも薄々聞いているだろうが、寺社の頼みだ。一つ働いてくれ」
「女が殺されたそうで」と、半七は眉を寄せた。
「うむ。寺社がそもそも手ぬるいからよ。地蔵が踊るなんて、ばかばかしい。早く差し止めりゃあよかったのだ」
「それはもっともで」と半七は言ったが、口の端をわずかに引いた。江戸という町は、理屈で動かぬことが多い。ましてコロリが流行った翌年の夏である。命が惜しい者ほど、紙一枚の札にも、石の地蔵にも縋る。
「子分の亀吉が、話の種に踊りを見に行ったそうです。あいつと相談して、なるべく早く手繰ってみましょう」
半七はその足で亀吉を呼び、町の茶屋で向き合った。夕暮れの風に混じって、焼き味噌の香がふっと鼻をくすぐる。
「その地蔵の踊りを、おめえは見たのだな」
「見ましたよ」と亀吉は笑った。「世間にゃ、どうして盲が多いのかと、あっしも呆れましたね。地蔵が踊るんじゃない。踊らせるんです」
「やっぱりな」
「林泉寺へ対抗して縛られ地蔵を流行らせたが、長持ちはしねえ。そこで今度は地蔵を踊らせて、拝んだ者はコロリに取り憑かれねえ、なんて言い触らす。賽銭稼ぎの山仕事でしょう。寺のことですから町方が迂闊に立ち入れねえ。あっしも指をくわえて見ていましたが、いつか禍が出来すると思ったら、案の定で」
亀吉は「山師坊主を片っぱしから引っ立てて、泥を吐かせましょうか」と勇んだが、半七は首を振った。
「手っ取り早くは行かねえ。相手が寺社だ。順序を踏まねえと、こっちが損をする。まず現場を見て、地蔵の種を押さえる。女の死骸が寺の一件と繋がるかどうか、それはまだ判らねえ」
半七と亀吉が三河町を出たのは、八月二十四日の七ツ(午後四時)過ぎである。日が詰まったとはいえ、まだ夕日は赤い。江戸川端をつたい、坂を上って小石川へ向かうと、空の色が少しずつ薄くなって、虫の声が早々と地を満たした。行き交う者の中には、団扇と線香束を提げた女房もいて、踊り地蔵の噂がまだ町に残っているのが判った。
高源寺は相当に広い寺で、門には百日紅の大樹が枝を張り、夏の終わりの匂いを抱いていた。往来の者が五、六人、門前に溜まって内を覗いているが、寺中はひっそり鎮まり返っている。
それでも門前に溜まる男どもは、つい先日まで肩が触れるほど人が詰めたと言い合って、落ち着かぬ眼で地蔵堂のほうを見ていた。
門前左手の地蔵堂は、板戸と葭簀のような物で入口が塞がれ、「立ち入り無用」と札が立つ。役人の注意か、寺の遠慮か、どちらにせよ「見せぬ」仕立てである。
二人は戸の隙間から覗き込んだ。薄闇の奥に石の地蔵が立っている。足もとから、こおろぎの声が切れ切れに上がった。
「入ってみましょうか」と亀吉が言う。
「断らねえでも構わねえ。入ろう。おめえは外を見張ってろ」
半七は葭簀の立て回しを探り、体を小さくして堂内へ忍び込んだ。葭簀の青臭さと土の湿り気が鼻をつく。地蔵は三尺ほど、台座も付いて、手で押してぐらつくような代物ではない。半七は像の足もとへ身を屈め、土をまさぐった。指に当たる小石の並びが、どこか不自然である。
「おい、亀。手を貸してくれ」
「へい」
亀吉も這い込んで来た。二人で力を合わせ、石像を揺り、わずかに持ち上げて位置をずらす。すると像の下が穴になっていた。穴の縁は崩れぬよう石ころや古い石塔で支えられている。
「そんなことだろうと思った」
半七は穴へ降りた。深さは五、六尺。奥へ向かって横穴が通じているが、幅も高さも三尺ほどで、大の男は這って行くほかない。半七は土竜のように這い入り、三間も行かぬうちに行き止まりに突き当たった。土が詰まっている。ここを抜けてどこかへ抜ける算段ではない。
半七は泥を払いながら戻り、穴から這い上がった。
「行かれませんかえ」と亀吉が訊く。
「抜け裏じゃねえ。途中で止まりだ。だが、手妻の種は判った。あいつらはこの穴へ潜って、地蔵を揺らしていたんだ。子ども騙しもいいところだ」
半七は口では笑ったが、女の死骸のことが胸の底に沈んでいる。地蔵を踊らせるからくりと、縛られた女の死体とが、同じ糸で結ばれているとは限らぬ。だが、別々とも言い切れぬ。
二人が葭簀を掻き分けて外へ出ると、そこに一人の娘が、窺うように立っていた。十七ほどで、色の小白い顔に薄い疱瘡の痕が散っている。目が落ち着かず、口も重い。
「お前はどこの子だえ」と半七が訊くと、娘は門内を指さした。門を入った左に花屋がある。あの家の娘らしい。
「今朝は、ここに女が死んでいたってえじゃねえか」
「ええ」と娘は曖昧に答える。
「そのあとで、誰か死骸をたずねに来たかえ」
「いいえ」
「死骸は奥に置いてあるのかえ」
「ええ」
返事がどれも薄い。怖がっているのか、知っていて隠しているのか、半七はその「薄さ」を覚えた。
そのとき、門内から若い僧が出て来た。まだ灯を入れていない提灯を持ち、足早に通りかかったが、半七らを見ると立ち止まった。眼鼻立ちのすっきりした顔が、夕闇に青く見える。僧は二人を仔細らしく見ている。
半七もすぐ声を掛けた。
「もし、お前さんはこのお寺さんかえ」
「そうです」と僧は静かに答えた。
「今朝このお堂で死んでいた女は、まだそのままですかえ」
「それに就いて、ただいま訴えに参るところで……女の死骸が、見えなくなりました」
「見えなくなった……」半七と亀吉は顔を見合わせた。「誰かが持って行ったのか。それとも生き返って逃げたのか」
「さあ。何者に盗み出されたのか、本人が蘇生して逃げ去ったのか。一向に判りません」
寺の土間に預けたはずの死骸が消える。地蔵が踊る噂よりも、よほど不気味である。半七は僧の顔をじっと見た。目が泳いでいない。だが、胸の奥の何かを固く押し殺しているようにも見える。
「夜でもあることか。真っ昼間、預かりの死骸を紛失させるとは飛んだことだな」
「納所の了哲に番をさせて置きましたが……その了哲が、ちょっとほかへ行った隙に」
僧は眉をひそめ、唇を噛むようにして言った。
「わたしは俊乗と申します。寺社方へ、これから訴えに参ります」
俊乗は提灯を持ち直し、夕闇の道へ足を早めた。半七は門前に残り、こおろぎの声を聞きながら、ひとつ大きく息を吐いた。地蔵の下に穴があり、死骸が消え、口の重い花屋の娘がいる。ここから先、手妻の種だけでは済まなくなる。




