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第三章:夜叉神の面

 影は堂の前で立ち止まり、あたりを窺った(うかがった)。月はおぼろで、桜の枝先が黒く揺れる。影は顔を隠すためか、古い鬼の面をかぶっていた。胡粉の剥げた頬が、月の淡さを吸って、笑っているのか泣いているのか判らぬ。


 影は面箱へ手を伸ばした。蓋をわずかに持ち上げ、指先で中身をかき回す。祈りの手つきではない。探りの手つきである。


 兼松は、勘太の肩へそっと指を置いた。合図はそれだけでよい。ふたりは同時に飛び出し、影の背へ組みついた。影は声にならぬ声をもらし、体をよじったが、勘太の腕は若い。兼松の押さえは老練である。砂利が鳴り、面ががさりと擦れた。


 鬼の面がころりと落ちた。


 現れた顔は、青白い若い僧であった。年のころ二十五、六。額に汗が光り、唇がかすかに震えている。剃りあとが新しい。目が泳いだ。


「坊主め……」


 兼松は低く言った。怒鳴りはしない。怒鳴る必要がない。


「夜叉神の面をかぶって、金を探る。筋書きはもう出来てる。名を言え」


 若僧は、言い訳の形を探すように口を開いたが、喉の奥で言葉が崩れた。結局、うなだれて名を吐いた。近在の万隆寺の役僧、教重きょうじゅうであるという。


 ふたりは教重を門番所へ引き立てた。行燈の火が、油の古さで赤く細い。番茶の匂いが畳に染み、夜の湿りを押し返している。教重は縄をかけられ、畳の上へ坐らされた。


 しばらくは黙っていた。僧衣の袖口を握りしめ、指の関節が白くなる。坊主は、沈黙で罪が消えると思う。だが、沈黙ほど人を追い詰めるものもない。


 兼松は、煙草入れへ手を伸ばしかけてやめた。張り番の火は禁物である。火が恋しくてたまらぬ者は、口も手も早くなる。兼松は番茶を一口すすり、ようやく言った。


「兜から剥いだな。小判五枚。二朱銀も、手を出しただろう」


 教重の肩がぴくりと動いた。それが返事である。


 教重はぽつぽつ語りだした。寺男の弥兵衛の見廻りが、九つ、八つ、七つ、と癖で決まっていることを知っていた。暁方の七つの見廻りが済んで、寺内が一番ゆるむ刻限を見計らい、鑿と槌を袂へ忍ばせ、奉納小屋へ入った。ひとつこじると、あとは案外に外れた。人の欲は、指先へ乗ると止めどころがない。小判だけのつもりが、二朱銀へも手が伸びた。


「……それで、どうした」


 兼松が促すと、教重は顔を伏せたまま続けた。


「面を……借りたのです。夜叉神堂の、古い面を」


 盗みの面である。語る口が僧の口であっても、やることは盗人のそれである。


 教重は、夜叉神堂の前へ来たとき、面の内側が汗でぬるりと顔に貼りついた気がして、背へ冷えが走ったと言った。子どものころに聞いた「肉付き面」の怪談が、芝居や草双紙の文句と一緒に胸へ浮かんだ。盗みの汗で面が貼りつく――それが咎めに思えた。


「わたくしは……戻そうと、思いました」


 教重は、そこで声を詰まらせた。嘘を言っている者は、こういう詰まり方はしない。だが、嘘でなくても罪は罪である。


「奉納小屋へ戻れば、人に見つかると思いました。夜が明けて、寺の中が動き出して……。袂の金が、焼けるようで……」


 そこで教重は、夜叉神堂の面箱へ小判を押し込んだ。夜叉神の前なら、いつか元へ戻る道もあろう、と自分勝手に理屈をつけた。二朱銀も戻したつもりでいたが、そのとき一つだけ、指の間から滑って落ちたのに気づかなかった。石燈籠の根もとへ当たって、「かちり」と鳴った。あの乾いた音である。


 兼松は、そこまで聞いてから、ようやく小さく息を吐いた。


「おれは、取りに来ると思ったが……半分外れたな」


 教重は顔を上げた。眼に涙が溜まっている。罪を悔いる涙か、捕まった悔し涙か。どちらにしても、涙は金を洗わない。


「では、今夜は何をしに来た」


「残りの二朱銀を……戻しに」


 教重は、袂の奥から二朱銀を包んだ布を出した。兼松はそれを受け取り、勘太へ目を配せした。勘太は、先ほど面箱から出した小判を布に包み、脇へ置いてある。金の包みは軽い。軽いくせに、人の首を飛ばす重さを持っている。


 そのとき、奥の障子がすうっと開いた。行燈の火が揺れて、白い顔が半分だけ覗いた。門番所へ預けてある、おぎんである。


 おぎんは教重を見て、鼻で笑うように言った。


「あら……やっぱりお前さんだったの。声で気がついたよ。まだそんな真似をして……とうとうこの始末かね」


 教重の顔が、みるみる赤くなった。品川勤めのころの馴染だという。おぎんは言い募ろうとしたが、兼松が手を上げて止めた。


「もういい。女の口で坊主を叩いても、小判は戻らねえ」


 兼松は、門番と寺の者を呼び寄せた。開帳の最中に盗みが知れれば、寺の体面も、講中の面目も潰れる。寺社方へ渡せば、表へ出る。表へ出れば、尾ひれは人の口で勝手に育つ。


 兼松は言った。


「金銀は、夜叉神堂から出た。それだけにしろ。盗人は知れず。寺の内輪で始末しろ」


 教重は遠国の末寺へ回すことになった。僧の身で鑿槌(のみつち)を振るった罪が軽くなるわけではない。だが、江戸の世には、体面という名の帳がある。その帳の裏へ押し込まれる罪も、また多い。


 翌日から門前では噂が走った。盗人は夜叉神堂の前へ来ると、体が竦んで一歩も動けなくなり、金を置いたとたんに歩けるようになった、と。信心と見せ物が隣り合わせの町では、不思議はたちまち宣伝になる。線香は濃くなり、鬼の面は押しいただかれ、面箱が減る暇もない。


 兼松は、ひとり胸の内で思った。老練な詮議で掴んだようでいて、ほんとうは、石燈籠の根もとで鳴った二朱銀ひとつが手引きをしたのだ。あれが落ちなければ、おぎんは出来心を起こさず、面箱は改まらず、張り込みも遅れたかもしれぬ。


 夜叉神の咎めか、盗人の良心か――答えは知れぬ。だが、春の夜の薄い行燈の下で、鬼の面を見つめていた若い坊主の目だけは、嘘ではあるまいと思われた。


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