第二章:鬼に小判
夜叉神堂の石燈籠の根もとへ、かちり、と乾いた音を立てて落ちたものがあった。月のひかりを受けて、銀が一瞬、冷たく光る。
勘太が拾い上げるより早く、女は身をすくめた。逃げようとして、足がもつれたのである。兼松は女の帯をつかんだまま、肩口をぐいと引き寄せた。寺の境内は、昼の賑わいが嘘のようにしんとして、遠い門前町の灯だけが、まだ生きている。
「へえ、姐さん。これは何だい」
勘太の声は、わざと軽くしてある。二朱銀は、町人の手元にもないことはないが、女が袂に忍ばせるには、いかにも目立つ。しかも帯の間に挟んでいたとなると、なおさらだ。
女は咄嗟に口を開いたが、声が上ずった。口先のいい女は、声が先に乱れる。
「……夜叉神さまへ、香華の足しにと……」
「香華の足しなら、そう言って納めりゃあいい。盗んで納める信心は、どこの国の流儀だ」
兼松の言葉はきつい。しかし、怒鳴りつけるほどの荒さはない。竜土の御用聞きは、相手を追い詰める前に、逃げ道をひとつ残しておく。逃げ道があると、人はよけいに口を割る。
ふたりは女を門番所へ引き立てた。門番所の行燈は、油が古いせいか、芯が赤く、ほの暗い。番茶のにおいがしみついた畳に、女は膝をそろえて座らされた。名を、おぎんと言った。麻布六本木の鮨屋「明石」の女房で、品川の女郎上がりだという。
おぎんは泣きながら、亭主の清蔵が左の足に腫物を噴き、商いが立ちゆかぬので、夜叉神にすがりに来たのだと申し立てた。二朱銀は、面箱を探るうちに偶然見つけた。拾ってしまったのは、手元が苦しい出来心で、病が治ったら倍にして返すつもりだった――。
言葉は筋が通っているようで、どこか甘い。兼松はそれを聞き流すように聞き、煙草入れに指を伸ばしかけて、思い直した。張り番に火は禁物である。火を我慢できぬ者は、たいてい仕事が粗い。
「勘太。面箱をあらためろ。銀が一つ出たなら、ほかが潜んでいるかもしれねえ」
勘太は立ち上がり、夜叉神堂の神前に置かれた大箱へ取りついた。蓋をあけると、張子の鬼の面がうず高い。胡粉の剥げたもの、角の欠けたもの、汗と脂に黒ずんだものが、折り重なっている。願を掛けた者が古い面を持ち帰り、成就の折に新しい面を買って奉納する――そういうしきたりが、ここでは生きていた。
勘太は面を片端からつかみ出して、地に並べた。紙のこすれる音が、夜の静けさに妙に大きい。底まで掘り返したとき、手のひらに、硬いものが触れた。
「親分、出ましたよ」
月明りと行燈の光が交じるところで、慶長小判が五枚、黄いろく鈍く光った。つづいて二朱銀が、ころりと転がり出る。
門番の老爺は、喉の奥で息を鳴らした。五十両の噂が耳へ入っただけで、顔色が変わる。十両盗めば首が飛ぶ世である。五十両となれば、盗人の胆は石でも足りぬ。
兼松は、小判を一枚つまみ、指の腹でそっと撫でた。金の肌は冷たい。冷たいものほど、欲の熱を煽る。
「猫に小判ってえのは聞いたが……」
勘太が、にやりとする。
「これは鬼に小判ですな」
「鬼の箱へ押し込んだのは、よほど肝の据わった奴か、よほど臆病な奴だ」
兼松は小判を布へ包ませ、二朱銀も数を改めた。そこへ、おぎんが小さく身を縮めた。さっき石燈籠の根もとで落とした銀を、勘太が拾い上げたのを見ている。女の言い分が、なおさら薄くなる。
「おぎん」
兼松は、声を荒げない。
「おめえが拾ったと言い張る銀は、こいつの仲間の一つだ。面箱の底から出た小判もな。拾ったにしては出来すぎてる。だが、いまはおめえを責め立てても仕方がねえ。うそでもまことでも、ここに居てもらう」
おぎんは唇を噛み、涙を落とした。涙は出る。だが、その涙が何の涙か、夜の行燈の下では量りにくい。
兼松は門番へ目を配せした。
「この女は、ここで預かっておけ。逃がすな。手荒な真似はするなよ。亭主が腫物だってえなら、明け方に様子を聞いてやる」
門番がうなずく。おぎんは、行燈の影へ押しやられるように坐った。
兼松と勘太は、夜叉神堂の裏へまわった。堂の背後は桜の枝が影を落とし、砂利の白さだけが薄く浮いている。春先の夜は生ぬるい。だが、石に背をつけると、冷えが腰へじわじわ沁みた。
「親分……今夜、来ますかね」
「来るさ」
兼松は即答せず、しばらく遠い門前のざわめきを聞いた。女の笑い声が切れて、煮売りの鍋の蓋が鳴る音がする。江戸の夜は、賑わいが消えきらぬうちに、闇が骨へ入りこむ。
「ただし、取りに来るとは限らねえ。始末をつけに来る。取りに来るか、戻しに来るか――それは顔を見りゃ判る」
勘太は黙ってうなずいた。兼松の勘は、たいてい当たる。たいてい、である。その「たいてい」の外れが、人間の面白さでもある。
ふたりは息を殺し、夜叉神堂の影に沈んだ。線香の残り香が、紙の古臭さを連れて鼻先へ触れる。面箱の底へ押し込まれた金の冷えが、夜の闇のどこかで、まだ光っているような気がした。
四つ(午後十時)を少し過ぎたころ、砂利がかすかに鳴った。
闇の中から、黒い影が一つ、するりと現れた。




