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第一章:渋谷長谷寺の門前

 竜土の兼松が八丁堀から戻ったころには、三月十二日も暮れかかっていた。旧暦の三月である。朝から生ぬるい風が吹き、武家屋敷の塀越しにのぞく早咲きの桜が、もう散りかけている。冬の名残をどこかに引きずりながらも、空気はひと足先に春へ傾いていた。

 兼松は格子をあけて家へ入るなり、襟に溜まったほこりを手拭いでぬぐった。長火鉢の前には子分の勘太が控えている。年のころ二十七、八。顔つきは軽いが、目の色だけは軽くない。

「親分、御苦労さまで。八丁堀の御用は、長谷寺の一件じゃありませんかえ」

「むむ。もう嗅ぎつけたか。察しの通り、銭の兜だ」

 兼松は腰をおろし、煙草盆へ手をのばしながら言った。火をつける指が、老いのためというより、考えをまとめる癖でゆっくりしている。

「おめえ、あの兜を見たか」

「見ましたよ。奉納場に飾ってあるのだから手は出せませんが、なにしろ念入りの細工で……江戸にあんな職人はありますめえ」

「おれは近ごろ出不精でな。まだ参詣もしねえが、そんな細工から小判五枚をひっぺがすのは、素人の芸じゃああるめえ」

 兼松は煙を吐き、煙の向こうで言葉を噛むように続けた。

「寺社方のお指図が出て、三日の猶予がついたのが、きのうの夕方だと聞いた。世間が知るはずもねえ。それをその晩に抜き取られた。――内輪に出入りする奴がいる」

「内輪の……」

「開帳に詰めてる連中か、奉納場の世話役か、寺男か。いずれにせよ、耳の早い奴がいるってことだ。勘太、こりゃ案外、早く知れるぜ」

 勘太はうなずいた。兼松の勘が、たいてい当たるのを知っている。

「親分も一緒に?」

「行ってみよう。今夜のうちに門前を踏んで、匂いを嗅いでおく。腹が減っちゃ、頭が回らねえ。何か食ってからだ」

 膳にのったのは、ありふれた夕餉である。熱い飯に、味噌の汁、煮しめた大根、焼いた小鰯。兼松は酒は好まぬが、今夜は茶を濃くして飲んだ。春の夜は甘い。甘いから、油断が生まれる。油断の隙へ、悪い虫が入りこむ――そういう夜である。

 暮れ六つを過ぎて、二人は竜土を出た。麻布のあたりは武家屋敷が多く、塀が長い。往来は広いが、人影はまばらで、下駄の音が妙に響く。笄橋を渡り、渋谷へ踏み込むと、普陀山長谷寺の表門が、闇の中に黒々と立っていた。

 長谷寺は曹洞宗の古い寺で、のちの世では寺域を縮められ、町名も変わったが、江戸のころは境内が二万坪に近いと伝えられる。松、杉、桜の大木が枝を交え、夜目にも森のようだ。こういう寺は、寺の内よりも門前が賑わう。参詣を当て込んだ茶屋、団子、煮売り、土産物。開帳の最中とあって、日が落ちても灯が消えない。

 開帳は夕七つ限りで参詣人が引け、境内はひっそりしている。それでも門前町は、どこか落ち着かぬ。店先の行灯が風に揺れ、女の笑い声が細くつづく。夜風はぬるいが、まだ桜の匂いには早い。代わりに、煮えた醤油の匂いと、土の湿り気が混じっている。

 兼松は「桐屋」と染め抜いた花暖簾の茶店へ入った。

「まだ店はあるのかえ」

「どうぞお休み下さい」

 若い女が愛想よく迎えた。床几に腰をおろし、茶をすすりながら、兼松は世間話の顔で切り出す。

「今度は大当たりだそうだな」

「時候がいい上にお天気もよくて、たいそうな御参詣でございます。本所深川や浅草の方からもおいでになります」

「奉納物に、銭の兜ってのがあるそうだが」

「ええ。ほんとうに好く出来ているって、どなたも感心しておいでです」

 兼松は、茶の椀を置く手つき一つ変えずに言った。

「毎日、飾ってあるのかえ」

「……それが、きょうは飾ってなかったそうで。わざわざいらして、がっかりしてお帰りになった方もございます」

 勘太が空とぼけて受ける。

「なぜ引っ込めたんだろうな」

「さあ……いろいろ噂もございますが。お寺社の方からお指図があったとか……」

 二人は角度を変えていくつも問うたが、肝心の話――金銀がなくなったことは、どうやら伏せてあるらしい。茶屋の女も本気で知らないのか、知っていても口を閉ざしているのか、目の動きだけでは判じにくい。

 店が仕舞いにかかり、邪魔もできない。兼松が茶代を置いて外へ出たとき、ひとりの女がすれ違って通り過ぎた。年のころ二十五、六。小股の切れあがった、野暮でない身なり。門前の茶屋の女とは肌合いが違う。ふと、その女が思い直したように引き返し、長谷寺の門をくぐって行った。

 兼松が顎で指した。

「あの女、知ってるか」

「知りませんな。ここらの人間じゃねえでしょう」

「開帳だからいろんな奴が来る。だが、今ごろ、女が一人で寺へ入るのはおかしい。坊主を訪ねるでもあるめえ」

 勘太は返事をせず、足をずらして女のあとへ付いた。物に馴れた尾行である。並木の陰を縫い、石畳の端を選び、気配だけを薄くしていく。女は急ぎ足で、境内の闇へ溶けこむように進んだ。

 右手に、夜叉神堂がある。参詣の者なら知っている。石の立像の夜叉神で、昔、渋谷の長者の井戸の底から現れたという言い伝えがある。腫れものに霊験があるとも、願掛けに効くとも、話は土地によって少しずつ違う。ただ一つ、ここでは鬼の面を奉納するしきたりがあり、古い面が神前の箱にうず高く積まれている。願がかなえば新しい面を買って納め、香を供える。古い面は折を見て焼き捨てるが、それでもいつも箱はいっぱいだ。

 女は石燈籠の前で立ちどまり、おぼろ月の光にあたりを見まわした。人影がないと見ると、すっと堂の前へ寄り、神前の箱へ手を差し入れた。古い面をかき分け、何かを探っている。

 勘太は桜の木陰に身を沈めた。向きが悪く、女の手もとは見えない。だが、指先の動きは祈りのそれではない。探しものの手つきである。

 夜風が、紙の面に染みた古い煤と、線香の残り香を運んできた。勘太は唾をのみ、腰を浮かせた。ここで声をかけるべきか、もう一息、待つべきか。

 月の淡い光の下で、女の肩が小さく揺れた。何かに触れたのかもしれない。

 勘太は、さらに一歩、木陰からにじり出た。

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