エピローグ:廻り燈籠(どうろう)の影
半七老人の家を訪ねたのは、夕方に近い刻だった。赤坂の場末は、同じ東京でも、銀座の煉瓦町とは空の色が違う。どこか土の匂いがまじり、路地の奥から味噌を焦がすような煙が流れてくる。
老人の部屋は、いつもながら片づいていた。季節の花が小さな壺に活けてあり、蚊遣りが静かに煙を吐いている。縁側の軒に、小ぶりの廻り燈籠が吊ってあった。火を入れると、中の筒が熱でゆっくり回り、切り抜きの影が障子に泳ぐ——あの、盆のころの玩具である。
僕がそれを見上げていると、半七老人が湯呑を置き、いつものように笑って言った。
「先生、器量の悪い話を、いつまで続けても仕方がありません。もうここらで御免を蒙りましょうか」
「いや、それじゃ、肝心のところが抜けたままです。あの金蔵は、結局どうなったんです」
老人は、喉の奥で小さく笑って、膝を正した。
「わたしは穴八幡からすぐ、戸塚の市蔵のところへ行って、植木屋の新兵衛のところへ立ち廻ったのは金蔵に相違ない、と知らせました。市蔵も子分も総出で探しましたが、影も形も見えません。わたしも係り合いですから、その晩は市蔵の家に厄介になって、明くる朝、もう一度植新へ行ってみた。すると、三甚もお浜も、もう居ないんです」
「どこへ?」
「白井屋から植新へ預けられたところへ、あの男が押しかけて来たでしょう。植新も驚く、白井屋も心配する。お浜が泣いて騒ぐ。そこで、四つ家町の伊丹屋という酒屋へ、今度はそこへ預けたんです。親類筋だそうでしてね」
老人は、そこまで言うと、たまらぬという顔で吹き出した。
「ところが先生、伊丹屋の近所へも金蔵らしい奴が立ち廻った、と言い出す。で、今度は板橋へ行く。板橋へも来たという。では練馬へ、いや三河島へ——まるで大根でも漬菜でも仕入れて歩くみたいに、逃げに逃げましてね。小ひと月のあいだに、高田馬場から四つ家町、板橋、練馬、三河島と、しまいには松戸の宿まで行った。そこで“金蔵が挙がった”と聞いて、まず安心、という始末です。岡っ引がこれだけ逃げ廻るのは、前代未聞で、二代目の三甚は、いい笑い種になりました」
僕も思わず笑ったが、すぐに首をひねった。
「でも、その金蔵は、どこで挙がったんです」
「いや、それが——三甚を笑ってばかりもいられません。わたしもお仲間入りでして。植新へ押しかけた奴を一途に金蔵と思い込んで、懸命に追いましたが、あれは人違いでした」
「金蔵じゃない?」
「金蔵じゃありません。五月の末になって、神明前の千次が来ましてね。金蔵は王子稲荷のそばの門蔵という古鉄買の家に隠れている、と注進した。念のために見せにやると、古鉄買は表向きで、賍品買でした。ところが不思議なことに、金蔵は右の足を踏み抜いて、その傷が膿んで、ひと足も外へ出られないと言うんです」
踏み抜き——折れ釘などを踏んで足の裏を貫く、あれである。今でも厄介だが、当時は薬も心もとない。
「そんな金蔵が、半七を名乗って植新へ押しかけたうえ、びっこも引かずに逃げ廻るはずがない。ともかく挙げろというので、善八と松吉を連れて行くと、金蔵は寝たきりで、動きもしません。牢を抜けて、まだ一町も行かないうちに足をやった。遠くへ行けず、ほかの連中と別れて、京都無宿の藤吉に介抱されて、門蔵の家へころげ込んだ。その晩から痛み出して、買い薬を塗ってごまかしていたが、だんだん膿んで、身動きが取れなくなった。ですから、金蔵は牢抜け以来、一度も表へ出ていない」
「じゃあ、高田へ来たのは……藤吉?」
「そうです。藤吉は牢の中から金蔵と仲が良かった。上方者と江戸っ子で、妙に気が合って、いっしょに京大坂へ行ってひと稼ぎしようと約束していたそうです。金蔵が“あんな青二才に縄をかけられたのが口惜しい、行きがけに三甚を眠らせてやるつもりだったのに”と愚痴をこぼす。すると藤吉が、兄弟分のよしみに、おれが名代を勤めてやる、と。三甚を付け狙ったのは、金蔵じゃなく、藤吉でした」
半七老人は、湯呑の茶を一口ふくみ、続けた。
「人相書なんて、昔はいい加減なものでしてね。顔に痣があるとか傷があるとか、よほどの特徴がなければ、年頃が似ていると、どうしても取り違える。藤吉も金蔵も三十二。文句も似たようなものです。皆が“金蔵は江戸者だから江戸辺に潜る、藤吉は上方者だから京大坂へ飛ぶ”と決めてかかって、藤吉の方を薄く見る。そこで間違いが重なる。金蔵が藤吉になり、藤吉が半七になって、わたしがまずお縄頂戴——先生、笑い話にもほどがあります」
僕が息をつくと、老人は少し声を落とした。
「金蔵も門蔵も、強情に口を割らない。そのうち藤吉は千住の深光寺へ押し込みに入った。寺の者が銅鑼をたたいて騒ぎ、近所が駆けつける。逃げ場を失って、暗い池へころげ落ちたところを取り押えられました。惣吉と松之助も板橋の寺を荒らして挙がった。牢を抜けたばかりで一文無しですから、悪いことをしないでもいられなかったんでしょうが、藤吉は四月末から五月にかけて、近在を六か所も荒したそうです」
「それにしても、三甚の隠れ家を藤吉が知ったのは……」
「千次です。内股膏薬(うちまたごうやく。敵にも味方にも付く、あてにならぬ者のたとえ)でしてね。藤吉からも貰って、三甚の隠れ家を教え、今度はわたしの所へ来て金蔵の隠れ家を教える。腹の立つ野郎でしたが、金蔵の注進の功もあるので、まあ助けて置きました。藤吉が植新で半七を名乗ったのも、千次からわたしのことを聞いていたからです。藤吉は懐に短刀を呑んで、見つけ次第、三甚を突くつもりだったと申しました。逃げ廻ったのも、結果だけ見れば、無事のためだったかも知れません」
僕が「三甚は、その後どうしたんです」と問うと、老人は肩をすくめた。
「旦那方の信用も失い、仲間にも顔向けが出来ず、とうとう二代目の株を捨てて、さつきの婿みたいになってしまいました。三甚だって、そんなにひどい意気地なしでもないんですが、そばに女が付いて、これがむやみに心配して騒ぐ。引きずられるように、ああなったんです。先生方もお気をつけなさい——女に惚れられるのは、怖ろしい」
そう言って、老人はからりと笑った。僕は最後に残った兼吉のことを聞くと、「年上だけに巧く逃げたが、秋になって上総の方で挙がった」と、あっさり答えた。
話が尽きると、半七老人は縁側の廻り燈籠へ目をやった。火がゆらぎ、影絵の人形が障子の上を追い、追われ、ぐるぐると回っている。
「先生、あの廻り燈籠をご覧なさい。あとの人間が前の人間を追っているように見えるが、ぐるぐる廻っていると、見ようによっては前がうしろを追っているようにも見える。岡っ引が逃げて、泥坊が追う。物が逆さまになると、間違いもまた間違いを呼ぶ——人間万事、廻り燈籠というのは、こんな理窟かも知れませんね」
帰りぎわ、路地の闇が少し濃くなっていた。赤坂の空にひとつ灯がつく。僕の背後では、廻り燈籠の影が、まだ静かに回っているような気がした。




