第四章:高田馬場の狐
高田馬場の外れ、白井屋の庭さきで、三河町の半七は柳の幹へ押しつけられたまま、早縄を手首に掛けられていた。口では何べんも「人違いだ」と叫んでいるのに、相手の若い男ふたりは耳も貸さない。頭髻をつかみ、袖をひき裂くほどに揉みくちゃにして、しまいには店の亭主や料理番まで駈け寄って来る。捕物の場で、声の大きい方が勝つとは限らぬ。多勢に取り巻かれた半七は、とうとう縄を頂戴した。
縄がきゅっと締まるたび、半七は「逆さま」という言葉を、舌の上で苦く転がした。
「石町無宿の金蔵よ」
その名を聞いたとき、半七は呆気に取られて、つい、にやりと笑った。自分の顔が、逃げた科人に似ていると云う。笑って済むなら笑うが、縄つきのままでは冗談も喉につかえる。
縛ったのは、戸塚の市蔵の子分であった。神田と戸塚とは距離がある。古参の子分なら、半七の顔も名も聞き覚えがあるが、あいにく今日は駈け出しばかりが居合わせた。功名を焦って、詮議もなく飛びついたのが運の尽きである。
そもそもの種は、前の日の夕方、戸塚の子分が白井屋へ来て、人相書を見せて帰ったことにある。伝馬町の牢を破って逃げた六人のうち、本石町無宿の金蔵がこの辺を徘徊しているという噂が立った。客商売の家は、裏からでも入り込まれる。似た奴を見たら、すぐ知らせろ。そう云い置いて行った。
白井屋は、いまの江戸から見ればほとんど田舎である。馬場の名の通り、武家の馬術の稽古場があり、往来が尽きれば畑がつづく。川風が入る夜は肌寒いが、昼は早くも汗ばむ。庭の木陰では、もう蟬が鳴きはじめる頃であった。
その白井屋へ、お浜と二代目の三河屋甚五郎――通り名の三甚が、いったん身を寄せていた。神明前の小料理屋「さつき」のお力の縁づてで、女房の妹がここへ来ている。半七が訊き出した通りの筋である。
亭主は、半七がしきりに三甚の居場所を詮議するのを見て、胸のうちがざわついた。金蔵が立ち廻る噂を聞いた矢先である。しかも当時の人相書は、いまのように写し絵があるわけではない。鼻が高いだの、目つきが鋭いだの、髷の具合がどうだのと、文句ばかりが並ぶ。疑いの眼で見れば、鷺が烏に化ける。半七と金蔵とは年頃も恰好も似通っていた。雑司ヶ谷へ出ていた女房が、遠目に半七を見て「金蔵に違いない」と思い込んだのも、そのせいである。夫婦は相談し、戸塚の市蔵へ密告した。
市蔵が居れば、その場で「三河町の親分さんだ」と判った。ところが市蔵は留守、古参の子分も留守。残っていた若い子分ふたりが、これ幸いと駈けつけて来て、息を荒らしながら半七へ飛びついた。科人が「人違いだ」と誤魔化すのは珍しくない。半七がいくら「おれは半七だ」と怒鳴っても、逆に「口が達者だ」と取り合わぬ。こうして、岡っ引が岡っ引に縛られるという、逆さまの絵図が出来上がった。
やがて、市蔵が息を切らして現れた。縛られた男の顔を見た途端、面の色が変わる。
「馬鹿野郎……飛んだことをしやがる。早く縄を解け」
縄はすぐ解けた。若い者どもは縮み上がり、白井屋の夫婦も青くなる。市蔵は三河町にどう詫びたらいいかと、頭を掻いて平伏に近い。
「高田馬場の狐につままれたと思って、料簡しておくんなせえ」
「それもこれも、商売に身を入れるからの事だ。あんまり叱らねえがいい」
半七は、腹の底では苦笑しながらも、仲間の義理でそう云うほかなかった。市蔵は、近所の髪結を呼んで、乱れた髪を結い直させた。白井屋も恐れ入って、ありったけの肴を並べる。焼いた川魚の皮が香ばしく、浅蜊の汁が土の匂いをふくんで熱い。酒は甘くも辛くもなく、喉を滑る。半七はたんとも飲まぬ男だが、座が丸く治まるなら盃の一つ二つは断らない。
笑い声が立った頃、市蔵が少しまじめに云い出した。
「この辺で金蔵を見たって話がある。本助ってのが、早稲田の下馬地蔵の前で摺れ違った男を見た。顔をそむけて逃げるように行ったが、ありゃ金蔵に違いねえ、とね。だが、なんでここらをうろ付くのか、見当がつかねえ。身寄りもないらしいんだ」
半七は相槌を打ちながら、胸の内で考えた。金蔵は、三甚を付け狙っている。三甚はそのことを怖れて逃げ隠れし、お浜は不安で取り乱す。だが、その事情を市蔵へ明かせば、若い三甚の名折れになる。半七は黙っていた。
日がまだ明るいうちに座を立つと、白井屋の亭主を呼び、今度は小声で三甚の隠れ家を訊いた。亭主はすっかり安心して、正直に答えた。ここから一町ほど先、植木屋新兵衛――植新の家に忍ばせてあるという。
町家が切れると、一面の田畑である。夕日が水田の面を赤くし、蛙の声が乱れて起こる。半七は迷わず植新の門口へ行き着いた。門には大きな柳が立っている。植木屋は垣を固めず、表が植木溜になっている。松、槙、躑躅、南天が雑然と置かれ、八つ手の葉が濃い影を落としていた。
その柳の下に、半七と同じ年頃の男が、ひと足さきに突っ立っていた。半七は植木の葉陰に身を沈め、男の挙動をうかがう。男は内を覗き込み、柳をくぐって入った。半七も抜足で尾ける。
男は土間に立って声を掛けた。
「ごめんなさい」
内から女房らしい女が出る。
「こっちに芝口の三甚が来ているね」
「いいえ……」
「隠しちゃあいけねえ。ちょいと逢わせてくれ。おれは三河町の半七だ」
半七は、喉の奥がひやりとした。自分の名を騙る。しかも三甚とお浜のことまで知っている。偽者の正体はおおかた見えた。
女房が躊躇していると、男は焦れたように声を荒らげる。
「まだ判らねえのか。おれは半七だよ。三河町の半七だよ」
「うるせえな。半七はここにいるよ」
半七は植木の影から、男の前へすっと出た。
男はぎょっとして半七を見返したが、さすがに眼がはやい。身をひるがえすと、植木溜へ飛び込み、枝をくぐり葉をかき分けて、表へ逃げ出した。半七も追って出る。空はもう鈍い藍に沈み、往来は薄暗い。
こういう場合、黙って追うより声を掛けたほうが相手の胆をひしぐ。半七は後ろから怒鳴った。
「石町の金蔵、待て。半七の眼に入った以上、逃さねえぞ」
男は路を選ばず、田や畑のあいだをぐるぐる逃げる。泥の匂いが立ち、草が足へ絡む。穴八幡の近所へ来た頃には、あたりはすっかり暮れ切った。男は暗い女坂を逃げのぼる。半七は根よく追い、息を切らしながら坂上の手水鉢のあたりまで詰めたが、そこで、ふっと姿を見失った。
闇は深く、木々は黒い塊になっている。風が止むと、草むらがしんと黙る。半七は歯噛みした。市蔵の子分に送らせて来ればよかったと、今さら悔んでも遅い。暦のよい日ではなかった。
大樹の上で、梟が鳴いた。まるで人を笑うような声である。




