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第三章:白井屋の座敷

 千次を放してやると、半七はその足で神明前の小料理屋〈さつき〉へ引き返した。雨上がりの路地はまだ黒く湿って、土の匂いが鼻に付く。暖簾のかげから、お力が落ち着かない眼で往来を覗いていた。


 半七が近づくと、お力はほっとしたように身をのり出したが、すぐに口をつぐんだ。何かを隠す人間の癖である。半七はわざと声を荒くした。


「身延まいりだと? そんな嘘を言わせておくから、余計に角が立つ。八丁堀の耳へ入ったら、三甚は株を擦るぜ。子分も揃っていながら、逃げ隠れとは何だ」


 お力は、掌で前掛けの端を揉みながら、ようやく白状した。二代目甚五郎は、役目の手前それは出来ぬと一度は断ったが、母に勧められ、娘のお浜に泣き付かれて、気の弱い男は金蔵の一件が片づくまで姿を隠すことにしたという。


「どこへやった」


「高田馬場の近所で……白井屋という小料理屋へ。妹が縁づいておりますので、一時あずかって貰いまして」


「娘も一緒か」


「はい……」


 半七は舌打ちした。御用聞きが女を連れて逃げ隠れをする。色男も過ぎれば、江戸の商売にゃ毒である。


「長引けば長引くほど、あの若いののためにならねえ。金蔵は人相書も回っている。早く埒を明けて、芝口へ戻らせろ」


 お力は、伏し目で「何分」と繰り返すばかりであった。叱ったところでどうにもならないと見て、半七は急いでその場を離れた。京橋へ用達しに回り、神田へ戻ったのは七つ刻である。家へ着くなり善八が駆け込んで来て、牢抜けの勝五郎が小石川の裏長屋で挙げられたと告げた。七つ刻といえば、町々の時の鐘が遠く近く鳴り渡るころで、夕餉の支度の煙が屋根の間から立つ。そんな刻限に、抜け者が一人減ったという知らせはありがたいはずだが、半七の胸は妙に重かった。これで三人。残りは兼吉、藤吉、金蔵である。


 半七の胸は晴れない。ほかの揉め事も片づかず、そこへまたこの騒ぎが湧いた。手柄を争って金蔵を追う気はないが、金蔵の意趣返しが長引けば、三甚はますます笑い草になる。先代の甚五郎に世話になった義理もある。助けるなら、まず本人を引きずり出して、腹を据えさせるほかはない。


 翌朝、半七は高田馬場へ向かった。夜の雨が嘘のように晴れて、朝からむっとする暑さである。高田の馬場は、もとは旗本の乗馬や弓馬の稽古に使われた広い空地で、江戸の中心から見れば、まだ田舎の口であった。道の両側には植木屋が多く、松や槙の鉢が並び、見渡すかぎり青葉の庭がつづく。馬場といっても、いまのように家が密につまった町ではなく、道の向こうに畑がひらけ、川筋にそって掛茶屋や小料理屋が点々とする。風が通れば、濡れ土と草いきれがいっしょに来て、鼻の奥がむずがゆくなる。


 早い流れの小川に沿って歩くと、藤棚を入口に吊った家がある。白井屋である。半七がずかずかと上がると、若い女中が奥の小座敷へ案内した。畳の匂いが新しく、障子越しに庭の緑が揺れる。


「おかみさんはいるかえ」


「おかみさんは鬼子母神きしもじんさまへお詣りに――」


 雑司ヶ谷の鬼子母神は、子を守る仏として名が高い。商売女も、子持ちも、願ほどきのついでに寄っていく。だが今日は、それが都合のいい留守の口実に聞こえた。


 亭主が出て来た。三十七、八の、手の荒れていない男で、客に揉まれた愛想が顔に染みついている。半七は名乗り、さつきの話を出して、お浜と三甚を呼べと言った。亭主はじっと半七の面を見て、きっぱりと首を振る。


「手前どもには、誰もあずかっておりませんので」


 白井屋であることも、さつきの縁者であることも認めながら、そこだけは動かない。半七も焦れた。


「おれも同じ商売だ。三甚に話があって来た。隠し立てをするなら、家探しをしてでも逢っていく」


 半七の声が少し高くなったとき、女中が来て亭主を縁側へ呼び出した。亭主は「ちょっと」と頭を下げて去り、代わりに酒肴の膳が運ばれた。徳利の口から立つ燗の匂いが、暑気にまじって妙に甘い。


「旦那はただいますぐに参ります」


 女中も逃げるように引っ込んだ。半七は、亭主が腹を決めて三甚を連れて来るまでの間、ひと息つかせるつもりだろうと、手酌でちびりちびりやった。座敷の外では、森のどこかで早い蝉が一声二声、試すように鳴いた。


 ところが、小半時たっても亭主は戻らない。女中も寄りつかない。徳利は空になり、手を鳴らしても返事がない。客商売の家でありながら、人が消えたように静まり返っている。半七は、まるで人質になった心持ちで、畳の上に取り残された。


 人の目を避けて、三甚とお浜を別の家に匿ってあるのか。呼び戻すのに手間取っているのか。そう思って、半七は苛立ちを抑えながら待った。庭の池で鯉が跳ね、ぱしゃりと水がはねる。汀には菖蒲が植えられ、青い芒が背を伸ばしている。暑さのせいか、池の水に土の匂いが濃い。


 退屈しのぎに庭下駄を突っかけ、半七は庭へ降りた。柳の幹に肩を預け、ぼんやり池の水面を眺めていると、酒の熱が汗になって額へにじむ。庭は手入れが行き届いているが、どこか落ち着かない。客を入れている家の静けさではないのだ。


 小半時が過ぎた。亭主は戻らない。女中も寄りつかない。手を鳴らしても返事がなく、店の奥までが、からんと空になったように思える。


 半七は、柳の葉陰から座敷を振り返った。障子の向こうに人影がさす……そう見えた気がして、耳を澄ますと、今度は庭の外、土間の方で、砂利を踏む足音がいくつも重なって近づいて来る。


 ただの亭主の足ではない。


 半七は盃を置き、柳の幹から身を起こした。


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