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第二章:雨あがりの神明前

 翌朝、雨はひとまず上がった。だが空はまだ乾き切らず、雲の縁が低く重なって、いつまた降り出してもおかしくない。半七は傘を一本かついで芝口へ向かった。


 芝の辻は、雨あとの土の匂いがする。板石の継ぎ目には泥が溜まり、草履の裏にねっとりと絡みつく。大名屋敷の塀に沿って風が流れ、濡れた杉皮のような匂いが鼻をかすめた。小僧が荷をかついで駆け、魚売りの声が遠くで弾む。辻の片隅では、子どもが紙の灯籠を竹に通して、くるくると回して遊んでいた。雨粒を含んだ薄紙が鈍く光り、風にあおられてゆらりと回る。半七はそれを一瞥して、すぐに眼を戻した。


 三河屋甚五郎――通称三甚――の家は、絵草紙屋の江戸屋の横町、井戸の前に格子のある小さな家である。半七が格子を叩いて案内を乞うと、若い子分が顔を出した。半七の方は見覚えがないが、向こうは親分筋を心得ていて、腰を折って言う。


「三河町さんでございますか。どうぞ、こちらへ」


「親分は内かえ」


「へえ……」


 返事が妙に曖昧である。そこへ、もう一人が出て来た。石松という男で、半七の家へも二、三度は顔を見せたことがある。


「親分にちょいと逢いてえんだが」


「へえ……」


 石松も歯切れが悪い。若い子分と視線を交わして、ぬらりくらりとしている。半七は入口に腰をおろした。


「先月の二十三日に牢抜けをした奴がある。そのことで話がしてえ。留守じゃあ仕様がねえ。いつ戻る」


「へえ、実は町内の人に誘われまして……講中と一緒に身延へご参詣にまいりました」


「身延まいりか。ここは法華だねえ」


 江戸の町内には、日蓮宗の講中がいくつもあった。寄り集まっては、富士の麓の身延山へ詣でる。旅は信心の名を借りながら、道中の酒や景色もまた楽しみで、帰りは富士川下りなどと言って騒ぐ。堅気の商人も職人も、いざ講が立つとなると案外に浮き立つものだ。


「いつ立った」


「きのうの朝でございます」


「すぐには帰るめえな。……正月に石町の金蔵を捕りに行ったのは、誰だ」


「あの時、親分と一緒に行ったのは駒吉と、わたくしで」


「金蔵はどんな野郎だ」


「三十二、三で、色の浅黒い、痩せぎすな奴です。屋根屋の仕事をしていただけに身が軽いって話で。番屋へ引っぱった時も、酔ってたから捕まっただけだ、屋根へ飛び上がりゃ屋根伝いに江戸じゅう逃げて見せるって、大きなことを……」


 半七はその言い草に、ふっと鼻の奥で笑った。虚勢の大きい悪党ほど、恨みも深い。しかも相手が若い三甚となれば、名折れが許せぬという理屈も出る。


 話を聞くだけ聞いて、半七はいったん横町を出た。傘はますます荷物になる。雲の切れ目から薄い日が洩れ、濡れた路地がまだらに光った。ここまで来たついでに、神明前の小料理屋「さつき」を覗いてみようと、半七は泥を踏み、草履の音を立てて行った。


 さつきは小さな暖簾を出した、女手の店である。出汁の匂いが、まだ店の外までうっすら流れていた。帳場の前に腰をかけていた男が、奥へ向かって声を荒げる。


「どうしてもいけねえってのか。……じゃあ仕方がねえ。この先なにが起きても、おれは知らねえぞ。その時になって恨みなさんな」


 暖簾をくぐって出て来た男の前に、半七がすっと立ちはだかった。


「兄哥、ちょいと待ってくれ」


「誰だ、おめえは」


 男は眼を三角にして睨んだ。痩せてはいるが、まだ若い。地廻りの遊び人らしい、脂気のない鋭さがある。


「神明の千次さんじゃねえか」


「人の名を訊く前に、自分の名を言え。それが礼儀だ」


「礼儀とがめをされちゃ、名乗らねえわけにゃ行かねえ。……あっしは三河町の半七だ」


 千次の顔色が、そこで変わった。肩の力が抜け、衣紋を直して頭を下げる。


「やあ、三河町の親分で。こりゃ飛んだ失礼を……わっしは神明の千次でございます」


「よし。こっちへ来い」


 半七は千次の肘をつかみ、五、六間先の質屋の土蔵の前へ連れて行った。白壁は雨に濡れて黒ずみ、土蔵の戸口の鉄金具が冷たく光っている。


「いま帳場で何を言ってた。喧嘩か」


「いや、親分……どうかお聞き流しを」


「流すにも、流せねえ。……そこらの番屋まで来てもらおうか」


 千次は目に見えて慌てた。


「いけねえ、親分。番屋へ連れて行ってどうするんで」


「どうするもんか。都合によっちゃ帰さねえかもしれねえ」


「わっしは悪いことは……これでもお上の御用を勤めたこともあるんで……」


「御用を勤めたってのは、石町の金蔵のことか」


 半七が笑って言うと、千次はぐっと詰まった。脅しに慣れている風を装っても、芯は弱い。半七の声に押されて、とうとう腹を割った。


 牢抜けの金蔵が出たと聞いた時、千次は自分の胸を掻きむしられるように思った。あの密告が露見して、金蔵が仕返しに来る――そう考えると、夜の闇がただの闇ではなくなる。ひとまず品川あたりの友だちの所へ潜ったが、煙草銭にも困り、腹も減り、結局こっそり神明へ戻って来た。馴染の家を廻って無心をしようとした。なかでも、さつきは金蔵の一件で顔を知っている。いちばん先に行けば、多少は手が出ると思った。ところが、帳場の女房に手強く断られ、癪にさわって、思わず口が滑ったのだという。


「なにもかも金蔵にぶちまけて、ここへ仕返しによこす――ってのは、その場のでたらめで……」


 千次は、へなへなと頭をかいた。


「肝腎の金蔵の居どころは知ってるのか」


「それが……知りません。ほんとに」


 半七はしばらく黙った。雨あがりの空気が、土蔵の前の狭い場所に溜まって、ひやりとする。


「身延まいりは本当か」


「嘘だと思います。今朝から訊いて歩いたが、ここらで身延へ行った者はいねえ。三甚も、どっかに隠れてるんじゃねえかと……」


「なぜ隠れる」


「親分の前ですが……二代目の三甚さんは気の弱い方です。金蔵が出たと聞いて、差しあたり姿を隠したんじゃねえかと。さつきの女房がひどく気を揉んでたって話ですから、その入れ知恵で……。それに、さつきの娘もこの頃は家にいねえって」


「馬鹿を言え」


 半七はわざと叱りつけた。


「いくら若くても三甚はお上の御用聞きだ。牢抜けが怖くて逃げ隠れする奴があるものか。そんなでたらめを世間へ吹聴したら承知しねえぞ。おれたちの顔にもかかわる」


「へえ……」


 千次は小さくなった。半七は、そこで声を落として言った。


「だが千次。金蔵は人相書の回ったお尋ね者だ。あっしも踏み込んで探さなきゃならねえ。何か聞き込んだら、すぐ知らせろ。そこらで一杯飲ませてやりてえが、今日は急ぎだ。これで勘弁しろ。骨折り賃は別に出す」


 半七は懐から二分の金を出して、千次の手へ握らせた。千次は目の色を変えた。金が嬉しいというより、番屋を免れた安堵が先に立つ顔である。


「済みません、親分。済みません……。ひと働きします。何分、お引き立てを……」


 千次を帰し、半七がさつきの門口へ引き返すと、暖簾の陰から女房のお力が、不安そうに表を覗いていた。雨に洗われた路地の光が、その頬の青さを余計に目立たせる。


 半七は傘を肩で押し上げ、声をかけようとして、ふと足を止めた。先代の三甚に受けた義理が、雨あがりの湿った空気といっしょに胸へ戻って来る。


 ここで間違えば、若い二代目は、御用聞きとして終わる。


 半七は一度だけ空を見て、暖簾をくぐった。

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