第一章:湯あがりの小雨
安政元年の五月、江戸はまだ梅雨には早いが、空の腹が定まらぬ日がつづいていた。夜明け前から降り出した小雨が、板塀の上をかすかに鳴らし、道の土をしっとりと黒くする。町内の湯屋は、こういう朝ほど繁盛する。湯気にまぎれて濡れた木の匂いが立ち、桶を動かす音が、遠くの寺の鐘の余韻みたいに耳に残る。
三河町の親分・半七は、その湯屋から帰るところであった。手拭で髪をなでつけ、草履の裏でぬかるみを探りながら格子の前へ来ると、内に女物の傘と足駄が置いてあるのが見えた。半七の家は、御用の相談もあれば、子分の出入りもある。人の影が見えても、いちいち顔色を変えるほど若くはない。
上がると、四十前後の女が座敷の端に小さく膝を折っていた。お仙が、いつもの穏やかな声で言った。
「おまえさん、この方がさっきから待っておいででしたよ」
女は深く頭を下げ、籠を差し出した。蓋の隙間から、焼いた魚と甘辛い煮しめの匂いがふっと洩れる。忙しい商いの間をぬって持って来た手土産であることが、匂いの丁寧さでわかる。
「初めましてお目にかかります。わたくしは神明前の、さつきでございます」
半七は名を聞くなり、胸の中で一つ頷いた。芝口の神明前――人の往来が多く、芝居帰りの者も立ち寄る。そこに小さな暖簾を掲げた店があることも、そこで働く女房お力のことも、耳に入っていた。しかも、その店の娘が、同業の若い御用聞き・三甚と懇ろだという噂もある。
「朝からどうしたえ。店は忙しいだろうに」
「ええ……。親分もお聞き及びでございましょうが、先月の二十三日に、伝馬町の牢抜けがございましたそうで……」
伝馬町牢屋敷。江戸の罪人が集められるところで、塀は高く、番は厳しい。そこから六人も飛び出したとなれば、人相書が町々を廻り、岡っ引は誰もが落ち着かない。半七も、ちょうど別の件で手を取られていた。四月から『正雪の絵馬』の探索に首を突っ込み、亀吉や幸次郎に足を使わせていた矢先である。重い御用が重なれば、段取りを誤るとどちらも取り逃がす。
「牢抜けは知っている。それで?」
お力は声を落とした。
「その中に……石町の金蔵というのが居りますそうで……」
名を聞いた半七は、ふっと笑った。罪人の名など、江戸の裏町では毎日のように飛び交う。だが、女の顔色は笑って済ませるには硬すぎる。
「金蔵がどうした」
「この前、その金蔵を召し捕ったのが、三甚さんでございますでしょう。あの時、あいつが……生きていれば仕返しをする、死ねば化けて出ると、番屋でさんざんに喚いたそうで……。千次さんも、密告の口が割れたと知れば怖いと申して、どこへか姿を隠してしまいました。娘は泣いて騒ぎます。もし三甚さんの方へでも来るようなことがありましたら……」
半七は、湯あがりの火照りがすこし冷めるのを覚えた。逆恨みは外道のすることだ。捕手を恨むのは筋が違う。だが、筋の違うことを平気でやるのが悪党でもある。
「牢を抜けた以上、あっしの目から見りゃ、まず草鞋を穿いて江戸を離れる。命が惜しけりゃ、いつまでも江戸にうろつける筈はねえ。仕返しなんぞに来る暇があるかい」
そう言いながら、半七はお力の目の奥の怯えを見た。女房の心配は、理屈で切り捨てても鎮まらない。
「ところが……」お力はさらに囁いた。「西の久保の切通しで、金蔵に似た奴の姿をちらりと見た者があるそうで……」
半七は眉を動かした。西の久保は、芝口からも近い。もし本当に江戸に潜っているなら、目当てがある。金か、女か、恨みか。
「それにしても、おめえさんの店へ来る筋はねえだろう。金蔵は行き合い捕りで、さつきは関わりが薄い」
「わたくしの家へ来ないにしても、三甚さんへでも……。娘のことを思うと、黙っていられませんで」
親の胸は、子の涙で崩れる。半七はそれを知っている。だが、ここで安請け合いはできない。御用聞きの面目は、町の噂ほど頼りないものに支えられている。外から手を入れれば、三甚の顔はつぶれる。
「堅気なら相談にも乗るが、三甚は一人前の御用聞きだ。科人が怖いから仲間の知恵を借りた――なんて話が出りゃ、あいつは世間に顔向けできねえ。第一、三甚にも子分がいる。そいつらが楯になって、親分の身を守りゃいい。よそへ頼ることはねえ」
お力は、いかにも言いにくそうに頷いた。古株の子分がつづけて死に、腕の立つ者が他へ移り、残った者は頼りにならぬ――そんな内輪の事情も、彼女の言葉の端から見えた。三甚が金蔵を挙げたのも、相手が泥酔していたからだという。なるほど、金蔵が「駆け出しの青二才に取られた」と吠えたのも、半分は見栄で、半分は本音であろう。
それでも半七は首を振った。
「本人が頼みに来たなら話は別だが、よその女房に頼まれて出しゃばるわけにゃいかねえ。あんたの気持ちはわかるが、いまは帰って、三甚の様子を見てやるんだな」
お力は籠を置いたまま、丁寧に礼をして帰った。雨脚はまた細く、路地の石が濡れて光っている。お仙がその背を見送り、ぽつりと言った。
「三甚さんも、困ったものですね」
半七は苦笑した。
「色男、金と力はなかりけりって昔から決まってる。岡っ引の色男なんぞは、どうもいけねえ。おれたちの商売は、やっぱりかたき役に限るな」
お仙は、亡くなった三甚の先代に世話になったことを思い出して、なおさら気の毒がった。半七も、ただ笑って見物していられない気持ちはあった。だが、理屈は理屈である。誰かが金蔵らを挙げてしまえば、それで済む。人相書が廻っている以上、遅かれ早かれ網にかかる――半七は、そう多寡を括っていた。
ところが雨は二、三日つづき、『正雪の絵馬』の方は縺れて埒が明かない。焦りが胸の底で燻っている夕刻、松吉が濡れ鼠になって訪ねて来た。
「よく降りますね」
「降ると出入りが不便でいけねえ」半七は火鉢の灰をいじりながら言った。「大木戸の方は、まだ眼鼻がつかねえ。で、牢抜けの方はどうだ」
「二人挙げられました。二本松の惣吉と、川下村の松之助で」
金蔵の名が出ない。半七は胸のどこかがすっと冷えた。松吉は、二人が板橋まで出たが路用が尽き、宗慶寺で住職と納所に疵を負わせて金を奪い、その足がついて女郎屋で挙げられた顛末を話した。娑婆へ出れば遊びたくなる。運の尽き――松吉は笑ったが、半七は笑えない。
「ほかの四人は?」
「ばらばらになって、二人も行方を知らねえそうで。けれど牢の中じゃ、藤吉と金蔵が仲がよかった。繫がっているかもしれねえと」
松吉はさらに声を落とした。
「松之助の申立てじゃ、金蔵はこう言っていたそうです。江戸に恨みのある奴がいる。そいつに意趣返しをしてからでなけりゃ、高飛びは出来ねえって……」
「意趣返しだと?」
「どうも三甚を狙っているらしい。小僧っ子に召捕られたのが名折れだって、むやみに口惜しがって……。牢抜けをした以上、命はねえに決まってる。恨みのある三甚を殺して、それから高飛びしようって料簡じゃねえかと」
半七は舌打ちした。悪党らしくもない未練である。だが、未練ほど始末の悪いものもない。お力が言った西の久保の噂も、嘘ではあるまい。
「藤吉が助太刀しているかもしれねえな。三甚も用心はしてるだろうが……」
半七は膝を改めた。ここまで来れば、黙って見物しているわけにはいかない。相手が恨むと言う以上、恨みの糸を断ち切る手は一つ――再び縄を掛けることである。逆恨みを、逆に利用しておびき寄せる手もある。
「おれが出しゃばるのも好くねえが、年の若い三甚だけじゃ何だか不安心だ。あしたは芝口へ出かけて、少し知恵を貸してやろう。ここで金蔵をうまく召捕りゃ、三甚も二度の手柄になる」
火鉢の炭がぱちりと鳴った。外では雨が、なお細く降りつづいていた。




