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プロローグ:廻り燈籠

 正月も七日を過ぎたというのに、赤坂の場末へ来ると風が骨にしみた。乾いた北風が路地の角を曲がって吹き抜け、煮売屋の湯気を横へさらって行く。僕は襟を立て、老人の家の格子戸を見つけて声をかけた。


「ご免ください」


 中で猫が一度、短く鳴いた。つづいて老婢ばあやが戸を引き、僕の顔を見ると、心得たように奥へ声を通す。


「先生でございますよ」


「はい、はい。どうぞ、どうぞ……寒いのに、わざわざ」


 半七老人は、いつもの火鉢の前に坐っていた。小さな炭が赤く息をし、鉄瓶の湯がかすかに鳴る。老人の頬は冬の光にやや青く見えるが、眼だけは若い。猫は火鉢の縁へ前肢をのせ、僕をちらりと見て、すぐに知らぬ顔をした。


「先生、今年は電燈が明る過ぎていけません。夜が夜でなくなる。昔の闇というものは、なにか――話の種を育てる畑みたいなものでしてね」


 老人はそう言って笑った。笑い方が、これから何かを思い出している顔である。


「また、そういう言い回しをなさる。闇が畑ですか」


「ええ。もっとも、わたしどもの商売は、陽気なお話や、寄席で腹を抱えるようなお話とは縁が薄い。正月らしい噺をしろ、と先生に言われても、どうも行き詰まってしまいます」


 そう言いながら、老人は湯呑を僕の方へ押しやった。茶の香がする。菓子は干菓子の小皿で、黒砂糖を薄くのばしたようなものが二つ三つ載っている。老婢が持って来るところを見ると、近所の砂糖屋の出来合いだろう。


「それでも、時どきは――おかしい、と言ってよい一件もございます。頭からしまいまで笑い続けるものではありませんが、噺の筋に可笑味おかしみがある。そういう程度のものです」


 老人は自分で言って、自分でくすくす笑い出した。僕もつられて笑ったが、何が可笑しいのかわからない。火鉢の炭がはぜる音と、外の風の音のあいだに、町を駈ける鈴の音が混じって聞こえた。


 寒詣りの鈴である。


 明治の町では、正月の宵などに、寺社へ詣でる人々が鈴を鳴らしながら歩いたり走ったりする風がまだ残っていた。ことに若い衆は、鈴を手にして、まるで号外売りのように声を張り、夜の道をすり抜けて行く。いまでは見かけなくなったが、僕が新聞社へ出入りしはじめた頃までは、こういう鈴の音が冬の町の景色の一つだった。


「聞こえますか、先生。ああいう音を聴くと、昔のことがするすると出て来る」


「それで、その可笑味のある話というのは――」


 僕が催促すると、老人はわざとらしく咳をし、ふっと真面目な顔になった。だが、目尻にはまだ笑いが残っている。


「つまり、物が逆さまになったので……」


 老人はそう言って、また笑った。


「石が流れりゃ木の葉が沈む、と申しますが、まあ、そんな按配です。泥坊をつかまえるはずの岡っ引きが、泥坊に追っかけられた。泥坊が追う、岡っ引きが逃げる。どう考えても、逆立ちでしょう。すると、あとから起こることも、次々に間違って来るもので」


 猫がその言葉に反応したように、尾をぱたりと動かした。老人は猫の頭を指先で撫で、火鉢の上にかけた釜の蓋を少しずらして湯の具合を見た。


だいはね、先生。廻り燈籠――そう付けたくなる。燈籠の中で影絵がくるくる回って、馬が走ったり、人が斬り合ったりする、あの玩具の燈籠です。あれは、外の灯が同じでも、紙一枚の向こうで景色が逆さになったり、思いがけない顔が出たりする。わたくしの話も、あれに似ています」


 老人の言う廻り燈籠は、紙の筒の内側に細工をして、熱い空気で中の輪が回り、切り抜きの影が動いて見える仕掛けのものだ。子どもが覗いて歓声を上げる。あの単純なからくりが、夜の闇にはひどく妖しく見えることがある。


「いつ頃の話ですか」


「安政元年――四月二十三日。夜の五ツ少し前でした」


 老人はそこで一度、湯呑を口に運んだ。湯気が鼻をくすぐり、唇の端がまたわずかに上がる。外では寒詣りの鈴が遠ざかり、代わりに、どこかで下駄の歯が石を叩く音がした。


「場所は日本橋伝馬町の牢内ろうない――あそこは先生、いまの警視庁のおりとはわけが違う。世の中のあかが、いちどに溜まるところでしてね。そこで科人とがにん同士が喧嘩をはじめた。声は呶鳴る、殴り合う、牢屋中が揺れる。鍵番が二人駈けつけても、外からでは鎮まらない。仕方なしに大戸の錠を外した――その途端に、五、六人がばらばらと飛び出して、役人を突き倒し、闇へ紛れてしまった」


 老人は言いながら、畳の上に指で小さく円を描いた。くるり、くるりと、廻り燈籠の回転のように。


「最初から仕組んだ馴れ合い喧嘩で、破牢の手です。闇の晩を選んだのも、抜かりがない。逃げた者は六人。みな無宿者ですが、その中に――牢屋と眼と鼻の先で産湯を使った、チャキチャキの江戸っ子が一人いた。それが、この噺の影絵の一つになります」


 老人はそこで言葉を切り、僕の顔を見て、いつものように丁寧に言った。


「先生。ここから先は、少し長くなります。けれど、逆さになった影が、どう回って、どこへ落ち着くか――それが可笑味の正体です。今夜は寒い。火鉢のそばで、ゆっくり聴いて下さいまし」

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