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第一章:外神田の蠟燭屋

 四月も二十日を過ぎると、江戸の町はもう春の盛りを越して、陽の光にどこか白い乾きが混じってくる。風はまだ冷たいが、土の匂いはぬくみ、川筋からは青臭い水の気が上がる。半七は『金の蠟燭』の一件を片づけ、ほかの細かな御用も一段落したので、ひさしぶりに肩の荷が軽くなっていた。


 そろそろ、宇都宮か川越へ足を伸ばしてみるか――そんなことを胸の隅で考えたのは、むろん、あの「東照宮のお使」の騒ぎが、まだ心のどこかに引っ掛かっているからである。江戸城の表玄関へ踏み込んで、天下を即刻引き渡せと喚いた乱心者。笠の裏には武州川越次郎兵衛と書いてある、肌身の臍緒書には野州宇都宮の粂次郎とある、天狗だ旋風だと、役人たちの口も世間の口も、好き勝手に尾びれをつけて噂を転がす。だが、噂が噂であるほど、足もとの小さな手がかりが見えにくくなる。半七はそれが好きではない。


 外神田に万屋という蠟燭屋がある。義父の代から何かと世話になり、今でも顔を出している店で、暖簾をくぐると、和蝋燭の甘い脂の匂いが鼻をなでた。蠟燭といっても、いまのように舶来の白い棒が並ぶ時代ではない。はぜの実から搾った木蝋を手で練り、芯に幾度も塗り重ねて太らせる。火を点ければ、ぱちり、と芯が微かに鳴って、薄い煙が立つ。その煙の匂いまで、店の板の間に染みている。


 番頭の正兵衛が帳場に坐っていた。年の頃は四十に少し届くかどうか、眉の濃い男で、商い人らしい落ち着きがある。


「親分、お久しぶりで」


「おう。ちっと立ち寄っただけだ。景気はどうだ」


 半七が腰をかけると、正兵衛は湯呑をすすめ、世間話を二つ三つ交わした。神田あたりは芝居小屋の客も流れ、商いの噂も早い。話が自然に城中の椿事へ移るのも無理はない。正兵衛は声を落として、帳場の隅に顔を寄せるようにした。


「ねえ、親分。このごろはお城の中に、いろいろあるそうで」


「さあな。人の口ほど当てにならねえもんもねえ」


 半七が煙に巻くと、正兵衛はなおも囁く。


「お玄関に突っ立った男は、川越の次郎兵衛だって、言うじゃありませんか」


 半七は、眉の根をわずかに動かした。もう名前だけは、こんな店先まで走っているのか。城勤めの坊主あたりが、面白半分に吹聴して歩くのだろう。噂は噂を食って肥える。


「その次郎兵衛って名に、あっしも覚えがある」と、半七はわざと淡々と言った。


「え……」


「続けな。何かあるんだろう」


 正兵衛は、いよいよ声をひそめた。


「ご承知でしょうが、この町内の番太郎に要作ってのが居ります。女房はお霜っていいまして、夫婦とも武州川越の者で、八年ばかり前から番太郎を勤めてますが、二人とも正直で、評判もよろしゅうございます。その要作に……いや、正確に言えば、次郎兵衛って若い者が、縁にあるそうで」


 半七の目が、すっと冴えた。


「番太郎が川越で、次郎兵衛って名が出る。そりゃ偶然にしちゃ出来過ぎだ。どんな縁だ」


「実はその次郎兵衛が、江戸へ奉公したいって、三月の節句に川越から出て来たそうで……それが五日から、行方が知れなくなりました」


「兄貴んとこに転がり込んで、消えたってわけか」


「はい。要作から、うちで使ってくれないかって話もありまして、主人と相談してみよう、そう返事をして置いたら、本人がすぐ姿を隠しちまった。要作も、ひどく心配してます」


「おめえは、その若いのを見たか」


「名乗り合いはしませんが、番太郎の店に居るのをちらりと。十九だそうですが、色があさ黒くて、眼鼻立ちがきりりとして……田舎者にしちゃ、妙に垢抜けた男で。あれなら役に立つって、思ってたんですがね」


 半七は、茶をすすりながら腹の中で組み立てた。城中へ踏み込んだ者が本当に川越の次郎兵衛かどうかは別として、笠の裏に書かれた名は、道具立てであることが多い。道具立てでも、道具は道具で必ず筋へ通じる。笠の持ち主が見つかれば、笠を持ち歩いた者へ、さらに糸が引ける。


「国へ帰ったって報せはねえのか」


「それも無いそうで。要作夫婦も忙しい身で、心配はしても、あちこち聞いて歩く暇が無いらしく」


 半七は席を立った。外へ出ると、春の埃が日射しに舞っている。神田の通りは人足も商人も入り乱れ、町の匂いが濃い。噂の大きな輪の外に、小さな輪がある。半七は、その小さな輪へ足を踏み入れる方を選ぶ。


 番太郎の店は、蠟燭屋のすぐ近くだった。四月になって焼芋は引っ込み、駄菓子と荒物をちょいと並べた、いかにも町内の小店である。店先には女房のお霜が坐っていたが、半七は横目で見ただけで、隣の自身番へ入った。


 自身番というのは、いまの交番のようなものだが、江戸の町内では、もう少し生臭い。町火消の道具も置き、喧嘩の仲裁もする。夜回りの木札や提灯の匂いが籠もり、板敷のきしむ音までが日々の暮らしの番をしている。


 定番の五平が、慌てて立ち上がった。


「親分さん。どうも」


「早速だ。番太の夫婦はどんな人間だ。川越の生まれだって聞いたが」


 五平の顔が、曇った。


「……なにか、お調べで」


「御用だ。正直に言え」


「要作は三十一、女房のお霜は二十八ぐれえ。川越の者に相違ねえです」


「要作に次郎兵衛って弟があるんだろ」


「要作の弟じゃございません。女房の弟だって、聞いてますが……」


 五平の迷惑そうな顔に、半七は内心で頷いた。城中の騒ぎは、町内を巻き添えにする。親類縁者が疑われれば、一町内が役所へ呼びつけられ、番人も店も面倒を背負う。五平が口を重くするのは、町内を守るためでもある。


「心配するな。お城の一件は、次郎兵衛本人じゃねえらしい」


「でも、笠に書いてあったって噂で……」


「笠は次郎兵衛の物かもしれねえ。だが、その本人じゃねえ。年頃が合わねえって話もある。誰かが笠を持ってたんだろう。そうなら、叱られるくらいで済む」


 五平は少し息をついた。


「……それでも、親分。次郎兵衛の行方が知れねえんで、心配してるんです」


「十九なら、もう若え衆だ。迷子になる年でもねえ。姉夫婦と喧嘩して飛び出したんじゃねえのか」


「それが、どうも……要作は隠してますが、女房がちょいと漏らしたところじゃ、義理の兄と折り合いが悪かったらしいんです。武家奉公がしたいって若いのを、要作が止めた。武家奉公といっても、まず中間だ、折助の仲間に入ってどうする、堅気の店へ入って辛抱しろって。次郎兵衛がそれを気に入れねえで、捫着があったって」


 五平は、同情するように続けた。


「江戸に頼る先もねえはずだのに、音沙汰がねえ。そこへお城の噂が立って、要作夫婦は蒼くなって……神信心やら仏参りやら、かわいそうなくれえ気にしてます。八年、何ひとつ不始末のねえ夫婦なのに、弟が出て来て、巻き添えを食うかもしれねえ。町内も、こっちも、気が気じゃねえんで」


「……なるほどな」


 半七は、顎のあたりを指で撫でた。人は大きな事件より、巻き添えの方に先に怯える。城中の噂は、当人よりも周りの者の暮らしを先に傷つける。


「次郎兵衛が笠の件だけなら、夫婦にそう言い聞かせとけ。余計に怯えさせても仕方がねえ」


「親分、それが……まだ、こんなことも」


 五平は表を窺い、いよいよ声を落とした。


「先月末だと思います。三十四、五の小粋な年増が来て、隣の店を指して、あれが要作の家かって訊くんで、そうだって教えたら、外から様子を見て、それから入って行きました。珍らしいと思って、こっちも覗いてると、だんだん喧嘩腰になって……しまいに女房が叩き出すみてえに追い返しちまった。あとで訊くと、門違いだって帰したって言うんですが、どうも……。あの二人、次郎兵衛って名を言ってたように思うんです」


「その女は江戸者か。他国者か」


「江戸です。口も着物も下町の女で……水商売か何かじゃねえかって」


 半七の胸の中で、糸が一本、きしりと音を立てた。川越から出て来て間もない十九の若い者が、浅草あたりの年増と揉める――それだけなら、江戸の町では珍しい話でもない。だが、隠して追い返す女房の手つきが気に掛かる。


「まだあるのか」


「その晩、暮れ切ってから、十七八の娘がまた隣へ来ました。奥で飯を食ってたもんで、手伝いの三吉の話ですが、これも女房に叱られて追い出された。丸出しの田舎娘で、泣きそうな顔で帰ったって」


 半七は立ち上がった。


「……こうなりゃ、女房の口を割らねえわけにゃいかねえ」


 五平の顔が、また曇る。


「親分、あの女房は……」


「脅すんじゃねえ。筋を立てるだけだ」


 半七は自身番の板敷を踏み、外の光を背に受けた。春の風が、戸口からひやりと入り込む。


「番太の女房を呼んで来い」


 五平は観念したように頷き、表へ出て行った。半七は、町内の匂いの濃い空気を胸に吸いながら、次郎兵衛という名が、噂から暮らしへ――暮らしから事件へ、どこで形を変えていくかを、静かに待っていた。


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