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第二章:外神田の自身番

 四月も下旬、神田明神の森の若葉がしめっぽい風に揺れて、町は春の埃をすこし鎮めていた。火事と喧嘩が名物の江戸でも、この頃の夕方は、どこか気がゆるむ。半七が外神田の自身番じしんばんへ顔を出したのは、そんな日のひる過ぎである。


 自身番というのは、いまの交番の先祖のようなもので、町内が自前で番人を置き、夜回りや火の用心、揉めごとの仲裁まで引き受ける。板敷きの狭い部屋に、竹の火箸と鳶口が立てかけてあり、煤けた提灯が梁からぶらさがっている。出入りの町人が勝手に坐って茶をすするので、畳と違って遠慮がいらぬ代わりに、足の裏が冷える。


 定番の五平は、半七の顔を見て、ほっとしたように頭を下げた。


「親分さん、ゆうべ話しました、隣の番太郎ばんたろうんとこの女房のことですが……」


「その前に、その女房を呼んでくれ。顔を見て、口で聞くのが早え」


 半七――三河町の親分は、そう言って、壁際の腰掛へどっかと坐った。五平の目が、表の格子の外を窺う。町内に禍が落ちるのを怖れるのは無理もない。城中の表玄関で暴れた男の笠に「武州川越次郎兵衛」とあった――そんな噂は、女房の井戸端話より早く走るのが江戸である。


 間もなく、五平に促されて、番太郎の女房が上がって来た。名をお霜という。年は二十七、八。頬の肉づきが働き者のそれで、眼つきは素直だが、どこか怯えが混じっている。あがり口で畏まって、両手を膝に揃えた。


「そんなに堅くなるこたあねえ。こっちへ来て掛けな。あっしは脅しに来たんじゃねえ。話を聞きてえだけだ」


 半七の声は柔らかかったが、五平は横から釘を刺す。


「親分に訊かれたことは、腹の中まで出すんだぜ」


 お霜は小さくうなずいた。


「次郎兵衛ってのは、おめえの弟で、川越から出て来たんだな。三月の三日に来て、五日から行方が知れねえ――それで相違ねえか」


「はい。五日の夕方に、ふらりと出て行きまして……それぎりでございます」


 声が震えた。江戸へ来たばかりの若い男が、何の手がかりもなく消える怖さは、親でも兄でも同じである。お霜は、弟が屋敷奉公を望んだのに対して、亭主の要作が町奉公を勧め、そこで言い合いになったのだと話した。屋敷へ奉公すれば下男や中間の類いになりやすい、折助の仲間へ落ちるより、堅気の店で辛抱しろ――要作の理屈は、町人としてはまっとうである。だが、十九の血気には針の尖りであった。


 半七は、口の端だけで笑った。


「若えもんは、叱られると、叱った奴より先に世間を憎む。気がつきゃ、自分の首を絞めてるんだがな」


 そこで半七は、五平が耳打ちした「二人の女」のことを持ち出した。お霜の指が、膝の上で絡まり合う。


「三月二十八日でございました。浅草の者だと申して、いきな年増が来まして、次郎兵衛に逢わせろと……」


 江戸の「粋」は、着物の柄だけではない。髪油の匂い、紅のさし方、言葉の間合い、目の運び――それらが揃って、はじめて粋になる。お霜の話す年増は、まさにそういう手合いらしかった。戸口で笑いながらも、目だけが笑わず、居場所を確かめるように家の中を覗いたという。


「弟は家出をしたなどと、まさか申せませんので、うまく断りましたが……向こうは、わたくしが隠していると疑ったようで、なかなか帰りませず。しまいには、つい大声になりまして……叩き出すように追い返しました」


「帰りぎわに、何か言ってったか」


「……怖いことを。『あの人にそう言ってくれ。決してただじゃ置かない。怖けりゃ浅草へ来い』と」


 半七は、鼻で息を吐いた。浅草という地名だけ残して姿を消す女は、たいてい水の匂いを身にまとっている。人を泣かせるのも、泣かされるのも、あの辺りは早い。


「もう一人、若い娘が来たってのはどうだ」


 お霜は、目を伏せた。半七は声を荒げずに追い詰める。


「黙ってりゃ、助け船も出ねえ。おめえが知ってる娘だな。同じ村か」


「……おいそと申します。村は同じでございますが、家は離れておりまして……親の名を言われて、ようやく思い出したくらいで……」


 お磯は十七、八。丸出しの田舎娘で、泣きそうな顔をしていたと五平は言った。お霜の口からも、その通りの姿がこぼれた。お磯も浅草に奉公していると言うだけで、宿も勤め先も言わない。弟に逢わせろと食い下がり、結局は叱られて追い出された。


「弟は、よほど人に惚れられる顔か」


 半七が軽口を叩くと、お霜は笑えずに、肩をすぼめた。半七は、その沈んだ肩に目を留めた。


「駒八という家だな。お磯の親は」


「はい。駒八と……。村でも、いろいろ不幸が重なって衰えたと聞きました」


 半七は、そこまで聞いて手を止めた。女の口から出る「不幸」は、男が思うより深い。まして江戸へ出た娘が、宿を言えぬ奉公をしているなら、なおさらである。


「今日はこれでいい。だが、お霜。今度のことで、亭主と夫婦喧嘩なんぞするんじゃねえぞ」


 お霜の唇が、わずかに動いたが、言葉にならない。


「弟がかわいいのは分かる。亭主の理屈も分かる。だが、こういう時に家の中が割れりゃ、外の禍が入りやすい。仲良くしな」


「……はい」


 半七は、自身番を出た。表の通りへ出ると、春の陽が傾いて、家並みの影が伸びていた。半町ほど行ったところで、八丁堀の同心・坂部治助に出逢う。市中見廻りの途中で、脇差の鞘が歩みに合わせて鳴る。


「半七。天狗はどうしてくれる。不人情なことをするなよ」


 坂部は笑いながらすれ違った。冗談の顔をしていても、目は責めている。城中で起きた椿事を、風に巻かれたことにして済ませた以上、内々の始末は要る。半七も、腹の底がちくりとした。


 その晩、三河町の家で、半七は子分の亀吉を呼んだ。燗徳利の湯気が立ち、塩辛い肴の匂いが部屋に落ち着く。亀吉が盃を置くと、半七は短く言った。


「二、三日の旅だ。船に乗ってくれ」


「船で、どちらへ」


「花川戸からだ」


 花川戸から川越へ向かう船は、隅田を上り、曲がりくねる川筋を辿ってゆく。道中の時間はかかるが、街道よりは人目が少ない。亀吉はすぐ察してうなずいた。


「川越ですか。ようがす。あっし一人で行って来やしょう」


「頼む。余計な喧嘩は買うな。聞くことだけ聞いて帰れ」


 路用を渡され、亀吉は夜気のなかへ消えた。


 翌日の午過ぎ、半七はまた外神田の自身番へ寄った。五平が待ちかねたように、顔を青くして訴える。


「親分さん、困りました。ゆうべ、番太の夫婦がまたやり合いまして……女房が、どこへか出て行っちまったそうで」


「今日になっても戻らねえのか」


「帰りません。亭主の要作も、もしや身を投げたんじゃないかって、町内の用を放り出して探し歩いております」


 半七は、舌打ちをひとつした。


「仕様がねえな……」


 春の陽気が人の心まで軽くするとは限らない。狭い町家の息苦しさに押されて、女はふと、取り返しのつかぬ方へ走ることがある。半七は眉を寄せ、浅草の年増の影と、泣きそうな田舎娘の顔と、その間に消えた川越次郎兵衛の姿を、胸の中で結び直した。


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