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エピローグ:鋏の音

 


 半七老人の話が、ようやく末まで行きついたところで、僕らは深川八幡の歳の市の人混みに、しばらく立ち尽くしていた。露店の熊手が竹の香を放ち、縁起物の小判形が、冬の日にきらりと光る。遠くで飴売りが声を張り、境内の土は大勢の草履に踏まれて、乾いた匂いが立つ。


 理髪店から出て来たばかりの老人は、頭がさっぱりしているせいか、いつにも増して顔色がよい。僕が黙っていると、老人はふっと笑って、僕の顔を覗き込んだ。


「先生、なんでも油断をしちゃあいけません。亀吉がうっかり油断したために、折角の探索をめちゃめちゃにしてしまって、当人も後々まで悔やんでいましたよ」


「では……鮎川とお房は、そのまま行方知れずですか」


「知れません。幸次郎をやって、鮎川の大宮在を探らせましたが、あちらにも立ち廻った形跡がない。江戸の内や近在にも姿を見せず、そのうち御一新の大騒ぎですから、そんな詮議をしてもいられません。明治になったのは、あの二人の仕合せで、どこにか天下晴れて暮らしているでしょう。世の中が変ると、思いも寄らない得をする者も出ます」


 老人は、まるで歳の市の雑踏を眺めるような口ぶりで言った。僕は、胸のどこかがすっきりしない。


「増田のほうは、つかまったんでしょう」


「これは前に申した通りで、髪切りは鮎川と自分の仕業に相違ないと白状しました。代地河岸のお園の家へ押し込んだのも、二人の仕業でした。ところが困ったことに、吟味中に押し込み所を破って逃げてしまいました。歩兵隊も、重々不取締りで致し方がありません」


「いったい、誰に頼まれたんです」


 老人は、薄い息を吐いて、もう一度、人波の向こうを見た。


「それが肝腎の問題ですが、増田は鮎川と米吉に誘い込まれて、最初に十五両、二度目に十両貰っただけで、頼み手は知らないと強情を張っていました。何分にも一方の鮎川が見付からないので、詮議も思うように捗らない。そのうち増田は逃亡してしまって、これも行方不明ですから、詮議の手蔓も切れたわけで……先生、いまの言葉で申せば、五里霧中というやつです」


「でも、米吉がいるはずでしょう」


「その米吉が、またいけないのです」


 老人は、少し声を落とした。


「王子あたりの川の中で、浮いていました」


 僕は思わず足を止めた。歳の市のざわめきが、ひと息だけ遠のく。


「殺されたんですか」


「豹に啖われて……と、まあ、そう云っているのですが」


 老人は、口元に皺を寄せて笑った。


「わたくしは死骸を見ませんでしたが、何かの獣に体を啖われていたそうです。野良犬に咬まれたのでしょうね。坊主あがりの良住と一緒に押し込みを働いて、ふところは相当に重い筈です。どこかの大部屋へでも遊びに行って打ち殺されたか、ごろつき仲間に狙われたか、それとも別に仔細があるのか、ともかく誰かに打ち殺されて、死骸を王子辺の淋しい所へ捨てられた。それを野良犬どもが咬み散らして、川へでも転がし込んだのでしょう。しかし、その当時は“豹に啖い殺された”という評判でした」


「観世物の豹は、本当に逃げたんですか」


「逃げたというのは例の噂で、上州から野州の方を持ち廻っていたのだそうです。もっとも、米吉が死んだのは本当です」


 熊手を担いだ若い者が、どんと肩で人を押して行った。僕らは端へ寄り、露店の甘酒の湯気を避けるようにして、並んで歩いた。


「結局、その陰謀の策源地は、はっきりしないのですね」


「薩州だろうの、長州だろうのと云っても、所詮は当て推量で、確かな証拠がないのですから、表向きの掛合いも出来ず、この一件はうやむやに済んでしまいました」


 老人は、少しだけ眉をしかめた。


「三田の薩摩屋敷には大勢の浪人が潜伏していて、とかく市中を騒がすので、とうとう市中取締りの酒井侯の討手がむかって、薩摩屋敷砲撃と相成った。あの砲撃のために、芝の金杉、本芝、田町の辺は焼けました。先生もご存じでしょうが、江戸の火は、火そのものより、噂と一緒に燃え広がるものです」


「良住という坊主は、ほんとうに何も知らなかったんでしょうか」


「万華寺の縁から考えると、良住は鮎川の秘密を知っていそうに思われる。けれど本人は、どうしても知らないと云い張っていました。これも吟味中に牢死という始末で、何もかも、うやむや……。こんな事件も珍らしいのです」


 云い終って、老人はまた思い出したように溜め息をついた。


「めずらしいと云えば、ここに少し不思議なお話があります。慶応三年十二月十三日、歩兵隊が吉原で喧嘩をはじめて、廓内の者や弥次馬に取り囲まれ、十幾人が半死半生の袋叩きに逢いました。そのなかには重傷で死んだものもありました。死んだのはみんな髪切りに出逢った連中だという噂で……。わたくしも何だか変な心持になりました」


 老人は言い終って、ふと足を止めた。理髪店の鋏の音が、まだ耳の底に残っているように、指で自分の頭を軽く叩く。


「髷を切るのも、髪を刈るのも、刃物でございます。刃物は、手の内ひとつで、冗談にもなれば命取りにもなる。先生、あの頃の江戸は、冗談と命取りの間が、いまよりずっと近うございましたよ」


 老人の声は静かで、丁寧で、しかし冬の水のように冷たかった。僕は、歳の市の灯りの下に、消えた鮎川の影と、川へ浮いた米吉の噂と、誰も掴めぬ“頼み手”の顔とを、いちどきに思い浮かべて、言葉が出なかった。

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