第四章:還俗坊主の財布
半七が十手を出すと、堤下の男は、ぴたりと動きを止めた。
日向の土は、さっきまでの春のぬくみを吸って、掌へじっとりとした熱を伝えてくる。切株の脇には、田圃の泥が黒く乾きはじめ、蛙の鳴き声だけが、のどかな顔で絶えない。そののどかさが、かえって油断を誘うようで、半七は男の足もとを見ていた。
「おれを追剝ぎ呼ばわりする口で、役人の十手を見ても平気かえ」
「役人だと……」
男は、わざとらしく笑おうとしたが、笑いは頬の途中で崩れた。逃げるにしても、堤の上へは半七がいる。田圃へ飛び込めば足を取られる。男の眼は、獣のように左右へ走って、最後に半七の手元へ戻った。
「なにも……なにも悪いことはしてねえ」
「悪いことをしてねえ者が、こんな重い財布を抱えて、往来で死んだように寝込むか」
半七が一歩寄ると、男は急に身を沈め、半七の脛へ掬いかけた。半七は躰を捻ってかわし、相手の襟首をつかんで土へ押さえつけた。砂埃が舞い、男の口へ土が入った。男は呻きながらも手を伸ばして財布を抱え込もうとしたが、半七はその手首を十手の柄で叩いた。
「手向いする気か。よし、存分にやれ」
半七の声は低かった。怒鳴りつけるよりも、その低さが相手を凍らせる。男は一度だけ唾を飲み込み、ふっと力が抜けた。半七はそのまま、財布を引き出して紐をほどいた。
中から、金の光が覗いた。小判が二枚、あとは二分金や一分銀が、乱暴に突っ込んである。ざっと見ても二十両は下らぬ。毬栗頭の流れ者が持つ金ではない。半七は金の匂いを嗅ぐように鼻を動かし、男の顔を覗き込んだ。
「おまえさん、名は」
「……良住」
「坊主の名だな」
「寺は……寺ァ、もう出ました」
言いながら、男は眼を逸らした。頬の剃り跡は薄いが、肩の張りが僧形の名残を持っている。半七は、その場でさらに詮議を重ねず、手早く縄を掛けた。堤の上を通りかかった木綿屋の手代が訝しげに見て行く。子供らは面白がって寄って来る。半七は子供を追い払い、良住を引き立てて三河町へ連れ帰った。
昼餉の支度をしていたお仙が、土まみれの男を見るなり眉をひそめた。半七は手水で手を洗い、火鉢のそばへ坐った。味噌の焦げる匂いがして、飯が炊ける湯気が立つ。半七はその匂いを背に、良住の顔をじっと見ていた。
良住は、深川海辺河岸の万華寺の納所あがりで、身持ちが悪く寺を逐い出されたという。還俗のつもりで髪を伸ばし、居どころも定めずに、日々を渡って来た。半七は、万華寺の住職が鮎川丈次郎の親類であることを思い出していた。縁があれば、路地の風がいつか屯所へも吹き込む。
「この金はどこで手に入れた」
「拾ったんで……」
「拾った金を財布へ入れて、往来で寝るか。寝たふりして追剝ぎでも待ってたのか」
半七が静かに詰めると、良住は肩を落とした。強情に突っぱる目ではない。腹の底まで悪党になり切れず、恐がっている目である。
「……下谷の金杉で」
「質屋か」
良住の唇が震えた。それで半七は確信した。昨夜、下谷金杉の高崎屋へ二人組の押込みが入り、五十両ほど奪って行ったという話がある。その一人は髷が無かった――というより、切ったばかりのように見えたという。良住の頭は毬栗ではなく、伸びかけの髪が乱れている。髷を切ったと言い抜けるには、かえって都合がいい。
「相棒は誰だ」
「米吉……」
「湯島天神下の藤屋の、あの米吉か」
良住は、いやだというように目を瞑った。半七は、それ以上は責めず、子分に言いつけて、良住を預けた。髪切りそのものには関わりがないと良住は言い張ったが、米吉の名が出た以上、話は屯所の噂と地続きになる。
翌朝、半七は歩兵屯所へ出向き、小隊長の根井善七郎に面会を求めた。屯所の門内は相変わらず荒い足音が揃い、鉄砲の金具が乾いた音を立てている。晴天がつづいて土が乾き、歩兵の踏む砂埃が薄く舞っていた。
「あなたは二十四日の晩、浅草代地河岸のお園という女の家へ押込みが入ったのをご存知でございますか」
「知らない。そのお園というのは何者だ」
半七は声をひそめた。ここから先は、人の耳へ入ると面倒になる。
「実は……大隊長の囲い者でございます」
根井の眉が、ひとつ跳ねた。箕輪主計之助――六百石の旗本で、大隊長として歩兵を率いている男が、代地河岸に妾宅を持っているとは、根井も知らなかったらしい。知らぬふりをして来たのか、ほんとうに知らなかったのか、いずれにせよ顔が曇った。
「して、それがどうした」
「お園は二人組の押込みに髪を切られたのでございます。おそらく箕輪の殿様と知っての業。殿様ご本人の髪を切るわけにも参りませんから、お妾さんの髪で恥をかかせようとしたのでございましょう」
根井は、口の中で短く息を吐いた。
「屯所の髪切りと、係り合いがあるのか」
「あるように思われます。油断をしていると、この屯所の中でも、まだ切られる者が出るかも知れません」
「では髪切りは……屯所内の者の仕業だな」
「鮎川丈次郎と、増田太平の二人――その線が濃うございます」
根井は、形を改めた。
「確かな証拠は」
半七は、向島で召し捕った良住のこと、金杉の押込みのこと、良住が万華寺あがりで鮎川と縁があること、相棒が米吉であることを、手短かに語った。米吉が金を握って鮎川へ渡し、増田も遊蕩の金に困って誘い込まれたらしい――その筋立ては、根井にも呑み込みやすかった。
「だが、米吉と良住は屯所とは関係ない」
「まったく関係がないとも申せません。鮎川が藤屋へ通うようになって、米吉と知り合い、そこから話が廻ったのでございましょう」
根井は黙った。屯所の内の恥が、外のならず者の手を借りて動いたとすれば、いよいよ面目が立たぬ。だが、いちばん肝腎なのは、米吉に金を出させ、髪切りを仕向けた“本家”である。
「お前は、そこまで嗅ぎつけたか」
「良住を押さえただけで、米吉の居どころがまだ判りません。良住は髪切りには係り合いがないと申しております。誰が頼み、誰が金を出したか、そこまでは……」
「むむ。鮎川と増田を詮議すれば判るはずだ」
根井は立ちかけた。
「代地の一件――お園の髪を切ったのも、やはり鮎川と増田か」
「まず、そう見ております」
屯所は夕七つが門限で、それ以後は外出が許されぬ建前だが、歩兵はしばしば抜け出す。そこを締めねばならぬ、と根井は歯噛みするように言った。半七は、守るべき規律の話よりも、いま逃げようとしている者の足音を聴いていた。
やがて根井が戻って来て言った。
「増田は練兵所に出ていたので、すぐに吟味する。だが鮎川は昨夜から帰隊しない。覚って逃亡したのかも知れぬ」
「子分の亀吉に尾けさせてあります。居どころは判るはずで」
根井の顔が険しくなった。
「あいつが市中取締りの手にでも渡ると、歩兵隊の不面目だ。お前に頼む。見つけ次第、取押えてくれ」
この頃、市中取締役は庄内藩の坂井左衛門尉で、その巡邏隊と歩兵隊は折合いが悪い。市中の乱暴者を押えるのは取締りの役目でも、歩兵の側はそれが癪に障る。睨み合いが衝突に変ることもある。根井が半七へ頼むのは、鮎川を巡邏隊の手へ渡したくない――その用心が透けて見えた。半七は黙って頷き、屯所を出た。
三河町の家へ戻ると、亀吉が待っていた。
「親分、鮎川のあとを追って行くと、竹屋の渡しを渡って今戸へ越して、それから花川戸の方へぶらぶら――そうしたら向うから米吉の野郎が来て、ばったり出逢いました」
「どこで」
「花川戸の往来のまん中で。真昼間で人通りが多いもんで、近寄れねえ。遠くから見ているだけでしたが、どうも様子がただじゃない。捫着でもしているようでさ。けれど、いつまでもやっていられねえから、いい加減に別れました。鮎川はそれから天神下へ行って、藤屋へはいり込みました」
半七は眉を寄せた。
「その鮎川は、ゆうべから屯所へ帰らねえそうだ」
「泊り込んでいるのか、それともお房を引っ張り出して駈落でも……。どうしましょう、すぐ藤屋へ行ってみますか」
半七は一息置いた。駈落と聞くと、色の影が濃くなる。だが、いまの鮎川は色だけでは動いていない。金と、脅しと、逃げ足――そういう臭いがする。
「そうだ。構わねえ。見つけ次第に押えろ。小隊長から頼まれている。早く行ってくれ」
亀吉を追い出すと、入れ違いに弥助が駆け込んで来た。
「親分。藤屋のお房が、ゆうべから帰らねえそうで」
「鮎川と一緒か」
「そうです。明るいうちから鮎川が飲みに来ていて、日が暮れて屯所へ帰る。お房はそれを送るように一緒に出て行って、それぎり帰らねえって」
半七は歎息した。亀吉が藤屋へ根気よく張り込んでいたなら、鮎川とお房の行方を掴めたかも知れぬ。だが藤屋へ入るところだけ見届けて、あとは例の通りと引き上げた――その油断が、ここへ来て痛い。半七は火鉢の炭を箸でつつき、立ちのぼる灰の匂いを嗅いだ。
髪切りの手口は掴めても、肝腎の二人が風のように消える。――この事件の半分は、まだ闇の中にあった。




