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第三章:隅田堤の掛茶屋

 

 明くれば三月二十六日である。夜半の雨風は暁方に切れて、空は拭ったように晴れあがった。だが晴れたぶんだけ陽が強い。まだ春のうちなのに、堤へ出ると肌へぺたりと来るようなぬくみがある。


 この頃の江戸は、世の中の騒ぎに気を取られて、花を追う人影も少ない。隅田堤の桜も大方は散って、枝には青葉が透け、花びらの湿り気だけが葭簀の端や土手の草に残っている。堤下の田圃では蛙がやかましく鳴いて、川の匂いといっしょに春の泥の匂いが鼻へさす。


 半七は亀吉を連れて向島へ廻って来た。藤屋の女中お房の名が出て、兄の米吉がちらりと見えた以上、歩兵の鮎川丈次郎を放って置けぬ。歩兵隊の外出日――町では「ドンタク」と呼んでいるが、異国の言葉が混じった休日で、彼らは明け六つから夕七つまで、隊外へ出ることが許されていた。酒を飲み、吉原へも行く。そういう日ほど、人は口も足も軽い。


 堤下の小料理屋から、二人づれの男が出て来た。ひとりは筒袖のだん袋に韮山笠をかぶった歩兵である。もうひとりは羽織袴の侍ふうで、こちらも笠を脱がない。二人とも、ひと息飲んだ後らしく、足もとがわずかに浮いている。往来が途絶えているのをよいことに、声をひそめるでもなく話しながら、堤へ上がった。


 掛茶屋のあたりは、今は休みのようで、外囲いの葭簀が昨夜の雨に濡れたまま垂れている。茶をたてる湯の気もなく、団子の香もない。二人はそこへ寄り、片隅に寄せてある長床几を引っぱり出して、向い合って腰をかけた。


「暑いな。すっかり夏になったようだ」


 侍が扇で顔をあおいだ。歩兵も笑って応える。


「もう日なかは夏でさ。殊に、ゆうべの雨風のあとで急に来ました」


 半七と亀吉は、掛茶屋のうしろへ身を寄せた。頬かむりをして、葭簀の隙から耳だけを突き出す。葭の青い匂いが鼻につき、乾きかけた土の熱が足の裏へ伝わる。


「では、今の一件を増田にもよく話してくれ。このくらいで止めては困る」


 侍の声が、少しだけ低くなった。歩兵の返事が渋い。


「……へえ」


「きょうは増田も一緒に来てくれるとよかったのだが」


「増田は二、三人づれで吉原へ昼遊びに行ったようで」


「はは、みんな遊ぶのが好きだな」


 侍は笑いながらも、言葉の底に焦れた色がある。歩兵のほうは、鼻へかかった曖昧な返事ばかりで、どうにも気が進まぬように聞こえる。


「では、きっと頼むぞ」


「へえ……」


「米吉が不安心なら、今度は手前から直々に渡してもよい」


 米吉――お房の兄である。半七は、亀吉の耳もとへ息を吹きかけた。


「聞いたか」


 亀吉は頷いた。二人は、声を立てぬようにさらに身を縮めた。


 侍は歩兵と連れ立つのを嫌うらしく、ひと足先に立って、吾妻橋の方角へ真っ直ぐに去った。歩兵は後に残って、しばらく堤を見つめていたが、やがて腰を上げた。桜の青葉の隙から落ちる真昼の光を、まぶしそうに仰ぎ、堤の向こうへ下りて竹屋の渡しへ向かう。


 渡しが出るよう呼ぶ声がして、亀吉はあわてて堤下へ駆けて行った。半七は、あえてすぐには動かず、空茶屋へ入って煙草をひと服つけた。煙が口の中に苦くひろがる。燕が堤のまんなかを飛んで行く影を、半七は眺めながら、胸のうちで筋を立てた。


 歩兵隊の髪切りは、猿でも狐でもない。人間の仕業である。そう見当をつけると、真っ先に疑うべきは鮎川丈次郎と増田太平の二人だ。ほかの者が何も見ないのに、この二人だけが「獣のようなもの」に出逢ったと言う。自分たちが人の髷を切っておきながら、疑いをよそへ逸らすために、自分の髪まで切って騒ぎ立てた――そう考えれば辻つまは合う。


 では、なぜそんな真似をしたのか。悪戯にしては執念が深い。意趣遺恨にしては相手が広すぎる。誰かに頼まれ、金を握らされてやったと見たほうが早い。藤屋のお房に入りびたり、米吉が間へ立ち、今日こうして侍と密談している。ここまで見れば、あとは時間の問題――半七は、そう多寡をくくりかけていた。


 煙草を揉み消して、半七は吾妻橋の方へ引き返した。陽ざかりの暑さはますます増して、堤の上を歩けば汗がにじむ。半七は葉桜の下を選んで歩いた。水戸屋敷の大きな椎の木が眼の前へ近づいたころ、堤下の田圃で子供らが泥鰌や小鮒をすくっている声がした。


「やあ、ここに人が死んでる」


「死んでるんじゃねえ、寝てるんだ」


 その声に足を止め、半七は堤の上から覗いてみた。堤の裾の切株にもたれて、一人の男が倒れるように眠っている。生酔いだろうと思ったが、念のため堤を降りて近づいた。


 男は堅気とも遊び人ともつかぬ風体で、毬栗頭が蓬々と伸びている。顔色は蒼黒く、口の端に酒の匂いが残る。


「もし、おまえさん。真昼間から、こんな所で何をしている」


 半七が揺り起こすと、男はすぐにはっと眼を開き、起き直って衣紋をつくろった。そのとき、両方の袖口を引く手つきが、法衣の袖を扱うように見えた。半七は眉を動かした。


「おまえさん、坊さんかえ」


「なに、そうじゃねえ。おらあ職人だ」


「めずらしい職人だな。そんな頭で出入り場へ仕事に行くのか」


「喧嘩のもつれで髷を切ったのよ。毛が伸びるまで仕事にも出られねえ。だから、ぶらぶらしてるだけだ」


 口ではそう言いながら、男の眼は落ち着かない。半七の相手になるのを避けるように、わざとらしく欠伸をして眼をこすり、歩き出そうとした。すると懐から、ずしりと重い財布が土の上へ落ちた。


 男があわてて拾おうとしたところを、半七が手を押さえた。


「待て。落し物はよっぽど重そうだな。おれに見せてくれ」


「見せろだと」


 男の眼がぎらりと光った。


「人の懐中物を改めてどうする。おめえは巾着切りか、追剝ぎか」


「追剝ぎは、そっちかも知れねえな」


 半七は笑って、なお手を離さない。


「まあ見せろよ」


「てめえに見せる謂れはねえ」


 男は半七の手を振り切って、財布をふところへ捩じ込もうとした。


「盗人の昼寝ってこともある」


 半七は声を低くした。


「そんなに重い財布を抱えて往来で寝込んでいりゃ、調べられても文句は言えねえ。おれが調べるんじゃねえ。この十手が調べるんだ」


 半七は、ふところから十手をすっと出した。

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