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第五章:高輪の茶屋とお台場人足

 遠州屋の二階借りへ影がすべり込んだとき、半七は胸の中で名を呼んだ。伝蔵――そう思ったのは一瞬で、障子の白みに映った肩つきは、あの逃げ中間の骨ばった細さではない。男は部屋へ入るなり、女を叱るように低い声を落とした。お熊の声が、怯えながらも、どこか諦めた調子で応じる。


 半七は善八を手のひらで制し、息を殺して耳を澄ました。言葉は切れ切れにしか届かぬが、「堀江」「成田」「口が軽い」などの端々が、ひどく生臭い。しばらくして男は出て来た。月明りに顔がかすめたとき、半七は胸の中で舌を打った。遠州屋才兵衛である。


 その晩は、追ってもどうにもならぬ。商い人の色事を捕まえるわけにもいかず、何より、伝蔵がまだ生きているなら、ここへ来る糸口を残しておきたい。半七は手を出さず、網を張ったまま日を送った。だが、獲物は思うように網へは入らない。風向きが変われば匂いも変わる。女の足も、男の腹も、そう易々とは読ませない。


 禍は、思いも寄らぬところから来た。翌年の二月、まだ夜の寒さが骨に沁みる頃である。浅草の聖天下で、遠州屋才兵衛が脇腹を刺されて死んだ。待乳山のふもとは、昼は参詣人と見世物の声で賑やかでも、宵更けは急に暗くなる。川が近く、湿った闇が衣の裾へまといつく。そこへわざわざ踏み込んだのが、ただの物取り相手とは思えない。


 財布が無くなっていたので、表向きは物取りの仕業などと騒がれたが、半七の耳に入ったのは「男と揉めていた」という目撃であった。才兵衛は今戸の寮へ茶道具を売り込みに行った帰りだという。商いで小金を握る男は、欲の匂いが濃いぶん、怨みも買う。


 半七は善八を連れて御成道の店へ乗り込み、家内を遠ざけてお熊を呼び出した。女は二十そこそこの白い大柄で、いかにも田舎育ちの目をしている。

「おめえ……伝蔵に逢ったか」

「参りました。おとといの晩、お湯屋の帰りでございます」

 お熊は隠さずに言い、伝蔵が「一緒に逃げろ」と迫ったこと、断ると「主人もお前もただは置かぬ」と嚇したことを、はきはきと話した。


「それで、主人を恨む筋があるのか」

 女は一度だけ言い淀み、やがて、思い違いだと言った。半七は笑って首を振る。

「思い違いで人は刺さねえ。恨まれるだけの因縁があるんだろう」

 問い詰めると、お熊はとうとう白状した。才兵衛は去年の暮れ、堀江まで出かけた。商いのためだという。雁の羽を集め、茶の湯で使う三つ羽箒にするのだと。炉の灰を払うのに、羽のしなりがいい。斑の入った羽が珍重されると、女は言った。


 半七はそこで、妙に胸がざらついた。堀江の百姓家で見た羊羹、すすきの陰の才兵衛――あれは羽のためだけではあるまい。才兵衛は、お熊の縁を追い、伝蔵の行方を嗅ぎ、そして女を手繰った。伝蔵がそれを恋の仇と見たのも、無理はない。色のもつれは、刃物より始末が悪い時がある。


 才兵衛殺しは伝蔵と見当がついた。だが、肝腎の伝蔵は風のように消えた。春が過ぎ、江戸の花が散り、ほととぎすが啼き渡る頃になっても、網は空である。半七も別の難儀に掛り合い、身の回りが血と火薬の匂いに染まる日がつづいた。


 六月の末、半七が見舞いの帰りに瓦版の読売へぶつかった。国元から出て来た者の仇討の記事である。往来の真ん中で紙を攫う若い者の顔を見て、半七はふいに思い出した。お台場の土を担ぐ人足たちの群れだ。


 嘉永の年、異国船の影に怯えた江戸は、品川沖へ土を積み、砲台を築いた。鍬の音、籠のきしむ音が、朝から晩まで海へ落ちる。人足は日毎に集められ、身元などいちいち改めはしない。手足さえ動けば働かせる。日当は一朱銀だのと聞けば、明日の飯に困る者は尻を叩いて集まる。逃げた凶状持ちが紛れ込むには、これほど都合のいい生洲はない。


 半七はすぐ善八を走らせ、麹町の飼葉屋直七を連れて、お台場の人入れを洗わせた。直七がそっと首実検をすると、芝の人入れ清吉の組に、確かに伝蔵がいた。


 七月十二日、朝の五つ時。空は早くから白み、海から来る風がまだ涼しい。高輪の海辺の茶屋に、笹川の鶴吉が直七に付添われて待っていた。鶴吉は三河町の親分の姿を見ると、喉の奥で息を呑み、

「親分さん、これを……」と、風呂敷包みを差し出した。

「へえ。あっしが預かった品だ。返す時が来たな」


 茶屋の女が冷えた水でところてんをさらし、酢の匂いが風に混じる。浜へ出る船頭の掛け声が遠くから聞こえ、波打ち際の砂は夜露を含んで黒い。


 鶴吉の手には風呂敷包みがある。半七がいったん預かった、あの脇指だ。刃を抜けば災い、抜かねば怨みが残る。半七は黙って包みを返し、鶴吉の目の底の火を見て取った。若い者の火は、風が吹けばすぐに燃え上がる。燃え尽きた後の灰を思うと、半七の胸も重い。


 清吉の小屋へ踏み込み、打合せどおりに伝蔵を叩き出す。日に灼けた人足の中に、あの中間の眼があった。汗と土にまみれても、眼だけは人を刺す。半七と善八、直七が寄って両腕を取る。縄はかけない。ここは奉行所の手柄ではなく、若い者の胸の内を片づける場だからである。


 茶屋の前まで引き摺って行き、半七が言った。

「伝蔵、覚悟しろ。笹川の鶴吉さんが、お主と姉の仇を討つ」

 善八と直七が腕を放した。


 本来なら、その場で膝を折って討たれてやれば、まだ人間らしい。だが伝蔵は、放した隙を見て摺り抜け、浜の方へ走ろうとした。砂に足を取られた背へ、鶴吉が飛びかかる。風呂敷がほどけ、古びた鞘が光った。次の刹那、脇指が背中から突き透った。


 潮の匂いの中で、伝蔵は声も出せずに崩れた。鶴吉は息を荒くし、柄を握った手を震わせている。半七は茶屋の縁台へ腰を下ろし、冷めた茶をひと口すすった。茶の渋みが舌に残り、腹の底の重石が、ようやく少し動いた気がした。


 鶴吉は直七に付添われ、番屋へ訴え出た。半七たちは付いて行かず、茶屋でひと休みして引き揚げた。あとの始末は案じられたが、伝蔵の罪科は明白で、上も相当の手心を見せたらしい。吉良の脇指は、笹川の家から福田の菩提寺へ納めたと、後に聞いた。高輪は泉岳寺の近所で、脇指は吉良の名を背負う――縁というものは、時に芝居めいている。

 半七は、その因縁の糸を指でつまむように、そっと胸の中で結び直した。



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