第四章:御成道の遠州屋
堀江から江戸へ戻ったのは、暮れ六つをまわってからである。川風にさらされた身体は芯まで冷え、舟を降りた途端に足の裏がじんと痺れた。三河町の親分は善八と別れ、神田の家へまっすぐ帰った。
お仙は早くから火鉢を起こして待っていた。炭がはぜる音が耳にやさしい。味噌汁の湯気の向こうで、女房は半七の顔色を見て、
「寒かったでしょう。お風呂はすぐ沸きますよ」
と言った。
「ありがてえ。だが、湯に浸かってる暇があるかどうかだ」
半七は羽織の肩を払って、堀江で見たことをかいつまんで話した。お熊が遠州屋の店にいること、宇兵衛方へ来た一人の男が恐ろしかったこと、そして、その家のすすきの陰から遠州屋才兵衛が顔を出したこと――。
お仙は黙って聞いていたが、最後に小さく眉を寄せた。
「変な人ね。成田へ参詣なんて、うまい口を」
「うまい口で生きる商いだ。だが、あっしらの鼻先へ出て来るってのは、何か訳がある」
半七は湯へ入った。湯気の中で背の筋を伸ばすと、川風の冷えがほどけて行く。ところが湯から上がっても、頭の中の冷えは解けない。遠州屋が何を隠し、何を欲しがっているのか。伝蔵は女を頼りに江戸へ戻る。その道筋に遠州屋が絡むなら、放ってはおけぬ。
半七は善八を呼び戻し、夜のうちに用を言いつけた。
「明日から、下谷の御成道へ張ってくれ。遠州屋才兵衛の店だ。出入りの顔を見ろ。女が出入りするなら、その行き先もな」
「へい。親分は?」
「あっしは表から行く。商い人の顔は、表で見ねえと分からねえ」
翌日、冬の空は鈍い青で、陽があっても温みはなかった。御成道というのは、将軍家が上野の寛永寺へ詣でる時に通った道筋である。今は将軍の御成りはないが、道の名だけは残って、上野へ向かう人足や旅人が絶えない。商人の店も寄り付きやすく、道具屋には都合のいい場所だった。
遠州屋の店は、間口が広いわけではないが、品物が多かった。釣りの仕掛け、刀の柄糸、印籠の紐、燈心、玩具まで並べ、見ようによっては何屋だか分からない。こういう店は、噂の種も拾える。才兵衛は番頭面で帳場に坐り、客が来ると腰を浮かせて愛想を振りまいた。
半七は通りすがりの顔で店へ入り、釣り糸をひと巻き買った。才兵衛はすぐ気がついたらしく、眼尻に笑いを寄せる。
「こりゃあ、親分。堀江では、驚きやして」
「お前さんも驚いたろう。百姓家で羊羹が転がってるのを見て」
才兵衛は「へへ」と笑ったが、笑いの底が乾いている。半七は品物を手に取りながら、わざと呑気な話をした。成田の参詣のこと、寒釣りのこと、行徳の宿のこと。才兵衛もそれに合わせて口を滑らせるが、肝心のところでは舌が止まる。店の奥の襖の向こうから、女の咳払いが一つ聞こえた。
半七はそこで、ふっと話を切った。
「堀江の宇兵衛の妹だ。お熊って女が、お前さんの店にいると聞いたが」
才兵衛の笑いが一瞬、固まった。だが商い人の習いで、すぐ持ち直す。
「へい。奉公人は使っておりますが、名はお辰と申して……。親分、まさか、あっしのところへお役目の手が掛かるってんじゃ」
「お役目は知らねえ。ただ、筋がある。女を隠すなら、隠し方を考えねえと、お前さんまで泥を被る」
半七は釣り糸を懐へ入れて出た。才兵衛は店先まで見送ったが、最後に口元を歪め、声をひそめた。
「親分。あっしは、巻き添えは御免ですぜ。あの女が何をしたか、あっしは知りません」
「知ってる者ほど、そう言う」
その足で半七は日本橋の伊勢町へ廻り、笹川の店へ顔を出した。魚屋は年の瀬で、塩魚の匂いと、板場の包丁の音が忙しい。帳場の奥に、お秋が坐っていた。泣き腫らした眼で、半七を見ると膝を寄せた。
「親分さん、あれから……」
「慌てなさるな。倅は」
鶴吉は裏で刀の手入れをしていた。親分を見ると、顔を赤くして出て来る。
「親分。今夜にも、あっしが――」
「馬鹿を言うな。刀は人を斬る前に、まず自分を斬る。お前さんの血が騒ぐのは分かるが、いま動けば手掛かりが逃げる」
鶴吉は唇を噛み、やがて懐から布をほどいた。あの脇指である。鞘は古び、手擦れで黒み、鍔元の金具に家の紋が覗いている。名のある刀の気配は、刃を抜かずとも伝わる。半七はそれを受け取り、布を巻き直した。
「これは、あっしが預かる。いまは、お前さんの手にあるだけで災いの種だ。必要な時が来たら、きちんと返す」
鶴吉は悔しそうに頷いた。母のお秋も、黙って手を合わせる。半七はそれ以上言わず、店を出た。冬の日本橋は日暮れが早い。橋の下を流れる水が黒く、舟の艪の音が遠くへ引いて行く。
夕方、善八が戻って来た。
「親分、遠州屋の裏を見ました。女は店に置いちゃいません。昼間は帳場の奥で手伝いますが、暮れ方になると裏口から出て、近所の長屋の二階へ上がります。二階借りで、大家は口が固い」
「なるほど。家に女房子がある男のやり口だ」
半七はそこで、鶴吉の顔を思い出した。若い者は、噂を聞けばすぐ刀に手が行く。仇討の話は瓦版に乗る。堀江の噂が江戸へ戻れば、鶴吉も黙ってはいまい。半七は善八にもう一つ言いつけた。
「笹川の倅を見張れ。先走りをさせるな」
「へい。あの若旦那は、まっすぐ過ぎますからね」
夜、半七は一枚の文を書かせた。宇兵衛の名で、お辰――お熊へ宛てる。堀江の母が病だ、いちど顔を見せてくれ、という体裁である。嘘ではあるが、女の足を動かすには、それくらいが要る。文は善八が持ち、二階借りの長屋へ入れた。
返事は翌朝、早かった。お熊は会いたいと言って来た。ただし堀江へは帰れない、夜に、遠州屋の二階で――と。
半七は火鉢の炭をつつき、赤くなった灰を見つめた。
「来るな、と言えば来ない。来い、と言えば来る。女の心はそういうものだ。伝蔵も、それを当てにして動く」
その夜、御成道は風が強く、行燈の火が小さく震えていた。半七と善八は遠州屋の店裏へ廻り、二階借りの長屋の暗がりに身を寄せた。戸のすき間から、灯がひと筋、廊下へ落ちている。障子の向こうで女の声がした。怯えたような、しかしどこか待つような声だ。
そこへ、下駄の音が近づいた。ひとつ、ふたつ――止まる。戸がわずかに開き、男が影のように滑り込んだ。背は高くない。だが、肩が妙に張っている。手が袖の中へ入ったまま離れない。
善八が半七の袖を、そっと引いた。
半七は息を殺して、闇の中で男の横顔を見た。




