エピローグ:古い写真
半七老人の話は、横浜の港風の匂いが鼻に残るところで、ふっと途切れた。
赤坂の場末の家は、夕方になると表の路地から煮物の匂いが入り込み、電燈の白い光が障子の紙目を薄く透かす。老人は火鉢の縁へ掌をかざし、猫が縁先で丸くなるのを見ながら、例によって自分の口の長いのを笑った。
「先生、調子に乗ってお喋りをしていますと、あんまり長くなりますから、もうここらで打ちどめにしましょう」
しかし、僕の胸に残ったのは、額に『犬』と書かれた裸の死骸と、蟹の彫りものを写したあの写真である。あんな札が出て、あの女がどうなったのかを聞かずに帰るわけにはいかない。
「お角は……結局、どうなりました」
老人は、煙草盆の灰を小さくならし、僕の顔を見た。
「もちろん、召捕りましたです」
さらりと言ったが、その「もちろん」の中に、あの頃の江戸の手間と汗が、ひとつに畳まれて入っているのがわかった。
お角は本所一つ目で女髪結をしていたお留という女の二階に潜んでいた。早桶を担いで夕暮れの河岸へ出たのは、お留の倅の国蔵と、相長屋の甚八という男で、国蔵はお角と関係があった。団子坂の一件では馬丁の平吉が挙げられ、平吉が消えると、後釜のように国蔵が現れる。写真屋の島田にも絡み、異人のハリソンにまで手を伸ばす。老人は呆れたように、しかしどこか淡々と語った。
「いやもう乱脈で、お話になりません。国蔵は小博奕を打つ口で、甚八も同じ仲間です。お角に頼まれて、島田の死骸を早桶へ入れて、押上あたりの寺へ送り込むつもりで日の暮れがたに出た。そこへ、あいにく横網の河岸で、わたしの子分の多吉に出逢ったんです」
多吉のほうは顔をはっきり覚えていなかったが、国蔵のほうは御用聞きの手先の顔を知っている。胆の据わった悪党なら、そのまま黙って通り過ぎただろうが、根が小心な男は、目が合ったと思うと足がすくむ。早桶を川へ抛り込んで逃げれば、よけい怪しまれるとわかっていながら、うろたえると人間はだいたいそういう仕損じをする。
「国蔵も甚八も、気味が悪くって自分の家へ寄り付かれず、深川辺の友達のところを泊まり歩いていました。お角は女でもずうずうしい奴でしてね。平気でお留の二階にころがっていたのを、とうとう多吉が探し出しました」
老人はそこで、湯呑みを置いた。
「捕り物は、ちょいと工夫をしました。女でも油断がならねえ。灯ともし頃を見計らって、多吉と松吉を向かわせたんです。裏の空地で行水を使っているところへ、ふっと踏み込んで御用。あの女も、さすがに裸で逃げ出すほどの度胸はありませんから、体を拭いて浴衣を着せて、素直に引っ立てて来ました」
半七老人は、口の端だけで笑った。
「ところが白洲へ出ますと、お角はまずそれを訴えましてね。『お上の御用でも、女が裸のところへ踏み込むのは無法だ』と。すると吟味与力が、ひょいと一枚投げてやったそうです。――『それほど恥を知っているなら、異人に素っ裸の写真をなぜ撮らせた』。蟹の写真です。あれで、あの女も赤くなって黙りました」
僕は、あの異人館で見た“札”が、ここで刃物になるのを思った。
「それでもまだ、犬の字が残ります」と僕が言うと、老人はうなずいた。
「そこから先は、わたしの責め道具です。川から引き揚げた洋犬の死骸を――吾八に頼んで写させましてね。その写真を、お角の眼の前へ突き付けさせた。『この犬をむごたらしく殺したのは、お前の仕業だろう。なぜ殺したか、お上ではもう調べ済みだ』――そう言うと、お角は写真をひと目見て、いよいよ恐れ入りました。犬に触れられるのを、身の芯で嫌がっていたんです」
「それで、白状を?」
「白状しました。ハリソン夫婦のことも、島田のことも、自分の仕業だと。――白状の筋は、こうです」
老人の声は、そこで少し低くなった。火鉢の炭が小さく鳴り、猫が耳をぴくりと動かした。
「まず、異人の奥方アグネスが嫉妬をしていた。亭主ハリソンと、お角の仲が噂になって、家の中が揉めていたそうです。晦日の昼に、お角は島田に連れられて異人館へ行きました。亭主は店へ出て留守で、奥方と島田とお角の三人だけ。そこで島田が言った。『細君も蟹の彫りものを写したい。今度は裸にならず、両肌を脱げばいい。礼は十五ドルだ』――お角は、その金に釣られて奥の部屋へ入った」
「帯を解いて椅子にかけた途端、扉が締まり、窓も堅い。そこへ大きな赤い洋犬が、のそのそ入って来て唸りながら迫ったそうです。名は“カメ”と呼ばれていた。逃げ場は無い。女は部屋じゅうをぐるぐる廻って、犬を避け続ける――。一時ほどして、誰が開けたか、入口がふっと開いた。お角は真っ青になって出て来た。犬は何事もなかった顔で付いて来た」
老人は、唾をのみ込むように一拍おいた。
「何のためにそんな真似をしたか、当人たちが死んでいますから確かじゃありません。ただ、嫉妬の匂いが濃い。お角は帰るなり、島田を斬ろうとしたくらいですから、よほど口惜しかったんでしょう。そこで腹を決めた。三人まとめて殺す、と」
「八日の宵に、勝手を知っている異人館へ忍び込み、寝台の下に隠れて夜更けを待ち、まず亭主を喉で仕留めた。奥方が跳ね起きて庭へ逃げると、お角も追って飛び降りた。そこへ犬が出て来る。本来なら主人に加勢するはずが――お角に嗾けられて、逆に奥方へ飛びかかり、とうとう咬み殺した。犬は、お角になついていたらしい。だからこそ、お角は最後に犬を憎み抜いた。番木鼈という舶来の毒を餌にして斃れるところを、眼を抉り、腹を裂き、刻んで川へ捨てた――写真になっていたのは、その犬です」
「翌日は島田です。生麦の立場で国蔵と甚八が待ち、酔い潰れた島田を別の駕籠で江戸へ送り込み、モルヒネを飲ませて殺した。わざわざ江戸まで運んだのは、死骸の捨て場の都合もあるが、異人殺しを島田に塗りつける狙いもあった。――それでも足りず、島田の額に『犬』と書いたのは、犬のように埋めてやりたいと思ったからだ、と。あの女の胸の中では、犬がすべての元凶になっていたんです」
「お角は、おとなしく?」
老人は、鼻の奥で笑った。
「おとなしくはありません。彫りものを見せて人を脅すような女ですから、最後まで口も態度も悪うございました。ですが、命が二つあっても足りないほどのことをした女です。女牢へ入れられて吟味中、流行の麻疹に取りつかれて、三日ばかりで死にました」
明治の今でこそ、牢の扱いもいくらか変わったと聞くが、それでも牢というのは、入った者の身の上が薄暗く縮む場所である。まして文久の大麻疹のさなかなら、牢も町も同じく病に追い立てられていたに違いない。老人は、ふっと目を細めた。
「お角にとっては、麻疹の流行が勿怪の幸いだったかもしれません。白洲へ引き据えられて、胸の蟹を衆目にさらされるよりは……」
話はそこから、思いがけず「写真」へ移った。例の彫りものの写真は、ヘンリーも要らぬと言って町奉行所に保管されたが、江戸が東京と改まって、役所の書類が東京府へ引き渡された折、そんなものはたぶん焼かれてしまったろう――老人はそう言った。紙は残っても、世の目が変われば、残したがらぬ紙もある。
僕は、異人夫婦の家にいた料理人と女中のことも気になって訊くと、老人は首を振った。
「富太郎とお歌は、何も知らないと判って釈されました。二人は夫婦になって、その後、西洋料理屋を始めました。横浜の近所は、舶来の味が好きな客もおりますからね」
そして、吾八のその後を語るときだけ、老人の声が少しだけ明るくなった。
「吾八はのちに、宇都宮吾陽なんて威めしい名乗りをあげて、横浜で売り出しの写真師になりました。先生、写真というものも、今じゃずいぶん手軽になりましたが、あの頃は薬品の仕度からして大騒ぎで、撮るほうも撮られるほうも、じっと息を殺していました」
老人は手文庫の底をごそごそ探り、古い台紙の一枚を僕の前へ出した。明治の初めの写真だという。褪せた褐色の中に、若い男が窮屈そうに背筋を伸ばし、どこか怒っているような顔でこちらを睨んでいる。襟元も髪も、今の僕らの姿とは違うのに、その眼の光だけは妙に生々しい。
「これが、その吾陽です。わたしも、一度こいつに撮ってもらいました」
写真というのは不思議なもので、紙の上に人間を押しつけておきながら、そこにいる本人は、とっくにどこかへ行ってしまっている。島田の死骸も、お角の胸の蟹も、あの港の夜の犬も、結局は皆、同じように闇へ引き戻されて、残るのはこうした一枚の紙だけだ。
僕が写真を返すと、老人は大事そうに手文庫へ納め、火鉢の炭を箸でつついた。小さく火の粉が立ち、猫が薄目を開けて、またすぐに閉じた。
「先生。人間の因縁というのは、犬の喧嘩みたいに、はじめはじゃれ合いのようでも、気が付くと血が出ます。彫りものだ、異人だ、写真だと、珍しい札ばかりが目につきますが、結局はみんな、欲と意地でございます」
僕は縁側に立ち、赤坂の路地へ落ちる電燈の光を見た。江戸の闇と違って、明治の灯りは容赦がない。だが、その白い灯の下にも、まだ見えぬものは残っている。
老人に礼を言って表へ出ると、背後で戸が静かに閉まり、どこからか秋の匂いのする風が吹き抜けた。港の潮でも、居留地の石畳でもない。赤坂の、今の東京の風である。




