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第四章:犬の字

 神奈川宿の西町――東海道の道筋から少し山手へ入った畑の中に、島田庄吉の小さな家がぽつりと建っていた。茅葺きの庇に、まだ青い鶏頭がひょろりと背を伸ばし、門柱には「西洋写真」と墨の太い看板が掛かっている。写真というものが江戸へ入り始めた頃は、舶来の見世物の一つで、薬品の匂いが先に鼻へつく。硝石やら酢のような刺激が、暑い風にまじって漂うのである。


 三河町の親分は半七、供の松吉を裏へ廻して人の出入りを押さえ、三五郎と並んで縁先へ腰を下ろした。出て来た若い男は、吾八と名乗った。目つきが濁らず、手の爪も黒くない。人を斬ったり脅したりする類の顔ではないが、問われて口を結ぶ癖がある。


 半七は、笑うように問いを重ねた。


「お角が、異人館へ出入りしたことはあるかえ」


 吾八は答えぬ。そこで親分は、わざと軽い調子で言葉を投げた。


「あっしは、もう見て来たんだ。蟹の彫りものを裸で写させた写真をな」


 そのとたん、吾八の顔色が変わった。風に吹かれた紙のように白くなる。半七が「先生は江戸へ行った」と聞いてからの一連の沈黙が、ここで急に重くなった。


「先生は……殺されたんで」


 親分が、横網の河岸へ投げ込まれた早桶の話をして、額の真ん中に『犬』の字が書いてあったと告げると、吾八は喉の奥で小さく唸った。


「犬……」


 半七は手を伸ばして、吾八の腕を掴んだ。きつくは握らぬ。ただ、逃げ道を塞ぐだけである。


「犬と聞いて、なぜ顔色が変わる。ハリソンの洋犬――あの“カメ”に、何かしたのか」


 吾八は耐え切れぬように、ふるえる声で言った。


「お願いでございます。先生の仇を取ってください」


「取ってやりてえから、江戸から来た。……下手人はお角だろう」


「お角です。きっと……」


 吾八は、ついに口を割った。島田は去年の冬、江戸へ写真を売りに行った帰りにお角と出逢い、連れ立って神奈川へ戻って来たという。しばらくは夫婦のように暮らしたが、正月を境にお角はふらりと消えては、十日、半月で戻る。家の人でもなく、よその人でもない――そんな出入りを繰り返した。


 四月の初め、本牧の景色を撮りに来たハリソンが島田の家へ寄った折、お角がそこに居合わせた。団子坂の一件で顔を合わせている二人は、互いに驚いたが、島田が「親類だ、悪い女じゃない」と取り繕い、ハリソンも渋々納めた。以来、お角は島田と連れ立って異人館へ行き、時には一人で行くこともあった。神奈川台の料理茶屋へ、ハリソンと二人で遊びに行ったことさえあるらしい。彫りものを見せて相手の眼を釘づけにし、怖がらせ、気を許させる――お角は、そういう“腕”を持っていた。


 半七は、そこで肝の問いを据えた。


「蟹の写真を撮らせたのは、いつ頃だ」


「六月の初め……五、六日頃です」


 吾八は、聞き耳を立てた奥の話として語った。夕方、二人が酔って帰り、奥で声が荒くなる。お角は、恥を売ったことを自慢するように叫んだという。二十ドルは安かった、五十でも取れた――と。ドルというのは居留地で通る銀貨で、江戸の両や分とは勘定の手触りが違う。舶来の金は、軽い音で卓を打つ。人の心まで軽くさせることがある。


 その金を、お角は島田に渡さぬ。口では「お前さんのため」と言いながら、懐へしまい込む。島田とお角は仲がよいようで、ふとした拍子に刃物の匂いが立つ。


 六月晦日の朝、二人は連れ立って出かけ、夕方に戻って来た。戻ったお角は青い――いや、真っ青な顔で、眼が血走り、髪を振り乱していた。黙って台所へ駆け込み、出刃庖丁を持ち出し、島田へ斬りかかった。島田は庭から表へ逃げ、お角は追う。吾八が後ろから抱き止め、島田がようやく刃物を奪い取って家へ引き摺り込むと、お角は島田の懐から紙入れを引っ掴み、そのまま出て行った。始めから終いまで、一言もない。ただ睨むだけである。


 それから五、六日、お角は姿を見せず、島田も外へ出ぬ。八日の夕方、吾八が銭湯から戻ると門の内に女の櫛が落ちていた。問いかけても島田は「知らない」と言う。九日、吾八が朝から横浜へ出た留守に、異人館で人殺しがあったと噂が立つ。ハリソン夫婦が殺されたという。その知らせを持ち帰ると島田がいない。異人館へ問うても島田は来ていない。七日経っても便りがない――。


 半七は黙って、胸の底で筋を組み立てた。横網の河岸で拾い上げられた早桶の死骸は、島田庄吉に違いない。誘い出したのはお角である。では、なぜ『犬』の字か。なぜ裸なのか。なぜ、異人館の夫婦まで――。


「先生とお角が飲みに行くところは、どこだ」


「神奈川台の江戸屋で」


 親分は松吉を連れて江戸屋へ急いだ。神奈川台は海風が通り、坂を上がると港の匂いが濃くなる。料理茶屋の二階は、畳に湿り気が残り、徳利の口からは温い酒の匂いがした。帳場で聞き合わせると、九日の昼前から島田とお角は差し向かいで飲み、午後の半ばには島田が正体をなくした。お角は駕籠を呼ばせ、島田を扶け乗せて帰ったという。


 眼と鼻の先を、わざわざ駕籠に乗せるのが不審である。半七が駕籠屋を引っ張り出して詮議すると、駕籠は生麦の立場まで出たという。お角も付いて行き、立場茶屋へ島田を扶け入れて酒手を渡し、駕籠を返した。駕籠屋の言うところでは、島田はぐでんぐでんに酔ってはいたが、死んではいなかった。


 死体を運ぶなら六郷の渡しが面倒になる。生きたまま、酔わせて、目当ての場所へ――そこから先は、女一人の腕では足りぬにしても、手助けが入れば筋は通る。半七は、舌の裏に渋いものを感じながら、なお一つの謎を握りしめていた。額の『犬』は、呪いでも、悪戯でもない。下手人の胸の内にある“何か”の印だ。


 異人夫婦を殺したのも、お角と見てよい。しかし、殺す理由と手口がまだ見えぬ。晦日の晩に何があったか。櫛は何を告げるか。洋犬“カメ”はどこへ消えたか。


「松、ここで悩んでも始まらねえ。写真屋へ戻るぞ」


 江戸屋を出て本宿へ差しかかると、往来の真ん中で二匹の犬が戯れていた。尻尾を振り、歯をむき、じゃれ合うだけの畜生である。その無邪気な騒ぎが、半七の胸をかすめた『犬』の字を、いよいよ不気味に際立たせた。


 江戸屋を出て本宿へ差しかかると、往来の真ん中で二匹の犬が戯れていた。尻尾を振り、歯をむき、じゃれ合うだけの畜生である。その無邪気な騒ぎが、半七の胸をかすめた『犬』の字を、いよいよ不気味に際立たせた。


 半七は、足をとめてしばらく眺めた。

 犬は、脅しにも刃物にもなる。使う者の手ひとつで、忠義にも、裏切りにも化ける。居留地の庭で女の喉を啖い、川へ捨てられた赤い洋犬――あれほどまでに刻まれていたのは、ただの腹いせではない。刻んだ手は、犬を「道具」として扱い慣れている。

 ふっと、半七の胸の底で一つの札が鳴った。

 犬を刻んだ写真。あれを一枚、紙の上へ閉じ込めて、女の眼の前へ突き付ければ――胸の奥の、犬に噛まれたような怖れが疼き出すかもしれぬ。

「松。写真屋へ戻るぞ」

 半七は言い、犬のじゃれ声を背に、港の灯のにじむ道を引き返した。胸の内では、さっきまでただの不気味だった『犬』の字が、責め道具の形に変わりはじめていた。

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