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第三章:上州屋の客帳

 居留地を出ると、潮の匂いが少し濃くなった。石畳の白さから解放されると、神奈川宿の道は急に人間くさくなる。味噌の焦げる匂い、魚を焼く煙、汗と馬糞のむれた気が、むっと鼻を打つ。港は新しく開けたが、宿場は古い。東海道の脇道へ一歩入れば、江戸の町と変わらぬ喧噪があった。


 三河町の親分は、三五郎と松吉を連れて、宿の上州屋へ戻った。去年、居留地へ出入りするときに使った宿で、表は旅籠の顔をしながら、裏には土地の噂が溜まる。疫病の年は旅人が減るはずだが、開港場の近所だけは別で、荷を負った男や、髪形の崩れた者が、いつもより余計にせかせかと歩いていた。


 親分は部屋へ上がるなり、ふところの写真を畳の上へ置いた。紙切れにすぎぬのに、手を離すと肩が軽くなる。松吉が顔をしかめる。


「親分、あんな物を見た後じゃ、飯が喉を通りませんぜ」


「見たくて見たんじゃねえ。だが、あれが札だ。札が出た以上、追わにゃならねえ」


 上州屋の女将は、親分の顔を見ると、すぐ湯を運び、鰯のつみれ汁と、胡瓜の浅漬を出した。海辺の鰯は脂が強いが、山椒を振ると、むしろ腹が落ち着く。親分は茶碗を置いて、女将へ訊いた。


「ここに、シマダって男が泊まったことがあるか」


 女将は眼を泳がせ、いったん帳場へ戻ってから、客帳を抱えて来た。宿場の旅籠は、客の素性を控えておくのが決まりである。まして開港場の近所では、奉行所からも口うるさく言われる。


「ああ……ございます。長崎者で、島田幸之助と書いてあります」


「いつだ」


「去年の秋から冬にかけて。火事で焼け出されたって、しばらく居ついたことも」


 親分は指で帳面の字をなぞった。書きぶりは丁寧だが、どこか癖がある。女将が声をひそめる。


「あの男は、異人館へ出入りして、写し絵の真似事をしていたようで。口はうまいが、目が冷たくてねえ。女と金の話が絶えませんでした」


「女?」


「ほら、神奈川には、そういう女もおりますから」


 女将は、宿場の裏手――茶屋町の方角へ顎をしゃくった。神奈川宿は東海道の宿場で、昔から飯盛女の名残が消えない。開港してからは、異人相手の遊びも混じり、世間の目はさらに厳しくなった。


「蟹の彫りものをした女は、知っているか」


 女将の顔色が変わった。松吉も、思わず息を呑む。


「……親分さん、それは、よした方が」


「よすもよさねえもあるか。人が殺されてる」


 親分の声は低かった。女将は観念して、ぽつりと言った。


「お角と呼ばれているのがいます。ほんとうの名は知りません。二、三年前に江戸から流れて来て、彫りものを売りにする。胸にまで蟹を彫ったって噂で、見た男は腰が抜けるって……。でも、近ごろは姿を見ません」


「いつからだ」


「この十日ほど。島田の男も、同じ頃から出入りがなくなりました」


 親分は多吉の言葉を思い出した。江戸の大川へ投げ込まれ、額に「犬」と書かれた裸の死骸。あれが島田だとすれば、十日という勘定が合う。だが、ここで断言して走れば、見当違いで笑われる。


「女将、島田は犬を飼っていたか」


「犬……」


 女将は首を振ったが、ひとつ思い出したように言った。


「犬そのものじゃありませんが、あの男は、犬のことをよく話しました。異人の赤い犬が利口だとか、女房の異人が犬を可愛がるとか。からかうような言い方で」


 親分は座布団から立ち上がった。


「三五郎。奉行所の出役に顔を出して、川へ捨てられた犬の始末を聞いて来い。松吉、おめえはこの近所で、赤い洋犬の首輪か鎖を見た者がねえか、魚河岸の辺りを嗅いで来い」


「へい」


 二人が出て行くと、親分はひとりで宿を出た。夜の神奈川は、港の灯がちらちら揺れて、江戸の闇よりも落ち着かない。異人船の帆柱が黒く突っ立ち、波の音の合間に、どこかで洋楽器の響きがする。新しい世の音だが、そこへ死臭が混じれば、ただ気味が悪い。


 親分は、昨日見た写真の女の眼を思い出していた。裸を晒しても平気な眼ではない。あれは、見せることで相手の胆を奪う眼である。入墨は肌の飾りではなく、鎧の代わりになる。火消や鳶が背へ彫るのも、刃物や火に向かう胆力を、身に刻むためだ。女が胸へ蟹を彫るのは、もっと執念深い。逃げ道を自分で塞いでいる。


 波止場の近くに、小さな茶屋があった。親分は暖簾をくぐり、冷や酒ではなく、熱い番茶を頼んだ。茶を啜ると、舌の上で渋が立ち、頭の熱が少し引く。


 そこへ三五郎が戻って来た。


「親分。犬は、川口の方で見つかったそうで。腹を裂かれて、重しを付けられてやした。異人たちは大騒ぎでさ。だが、鎖も首輪も見当たらねえ。人が外して持ってったんでしょう」


「殺しは、誰が疑われてる」


「料理人の富太郎と、女中のお歌はまだ縛ってありますが、手応えが薄い。異人の方は、日本の役人は何をしてるって、口が悪くなる一方で」


 親分はうなずいた。鎖がない――犬は、逃げたのではなく、連れ出されたのだ。犬の口を使うのは、犬の鎖を握る者である。


 遅れて松吉が帰って来た。汗まみれで、指に塩が光っている。


「魚河岸の連中は、赤い犬を見たって言いやす。だが、首輪は見てねえ。かわりに、妙な噂がありやした。十日ほど前、夜更けに河岸で、犬が何かを嗅ぎ回っていた。そこへ女が出て来て、魚を投げてやった。犬は尻尾を振って付いて行ったって」


「女の身なりは」


「顔はよく見えねえが、袖をからげた腕に、黒い模様が見えたって。蟹かどうかまでは……」


 親分は、番茶の湯呑みを置いた。


「よし。お角だ。――だが、急ぐな。犬を連れ出したのが女でも、殺しをやったとは限らねえ。島田の野郎がどこで何をしている。まずそれを掴む」


 三五郎が言った。


「居留地の連中に、島田の行き先を聞いて回りやしょうか」


「聞けば逃げる。噂は水だ。上から押さえると、横へ抜ける。――あっしらは、まず宿場の裏を歩く」


 親分は立った。夜の港風が、襟足を撫でて行く。暑さはまだ残っているが、肌の上を通る風だけは、たしかに秋の先を告げていた。


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