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第二章:異人館の三脚

 あくる朝、三河町の親分は八丁堀の同心屋敷へ足を運び、丹沢五郎治に面会した。去年の団子坂で居留地の異人たちを保護した一件に立ち会っている丹沢は、横浜で異人夫婦が殺されたと聞くと、眉をひそめた。


「よくよく運の悪い連中だな。そういうわけなら、行って見てやれ」


 異人相手の揉め事は、こじれて長引けば長引くほど、お上の威光が薄くなる。丹沢の言い分はまことにもっともで、親分も黙ってうなずいた。


 神田の家へ戻ると、松吉が朝から待っていた。去年も一度、横浜へ供をして、道筋や宿の勝手を少しばかり覚えている若い者である。そこへ三五郎も駆け込んで来た。三人は、飯をかき込みながら段取りを決めた。


 秋と言っても七月の陽はまだ長い。江戸は麻疹の流行で葬列が絶えず、空気まで薄汚れて感じられる日が続いている。こんな折、海風のある横浜へ出るのは、逃げるようで気が引けぬでもないが、親分の顔はすでに仕事の顔になっていた。


「明日を待つまでもねえ。今日これから立つ」


 品川まで多吉と幸次郎が見送りに来て、潮の匂いが混じる往来で別れた。鮫洲からは駕籠を雇った。担ぎ手の肩が汗を光らせ、草鞋の裏で砂が鳴る。遠くに海がひらけると、波の白が目に痛いほどで、熱気の中にも潮が生きているのがわかる。


 六郷の渡しを越えるころには日が傾いていた。川面は赤く照り返し、渡し舟が水を割るたび、ぬるい飛沫が頬へ散った。渡し場の茶屋でひと息入れ、塩気の利いた握り飯と、ぬるい麦茶で喉をなだめる。親分は箸を置くと、すぐに立った。腹へ入れたら、考えが鈍るのを嫌う癖がある。


 神奈川宿へ着いた夜、親分たちは係り役人に会って、これまでの詮議の筋を聞いた。異人館の家主ハリソン、その妻アグネス。寝所で喉を突かれ、妻は庭へ引きずり出され、飼犬が人間の手でむごく殺されて川へ捨てられたという。浪士の斬り込みなら刀で一息だ。小刀で喉を突き、犬を絡め、しかも犬までなぶり殺しにする――その手口は侍の匂いがしない。


 翌日、三五郎の案内で居留地へ入った。異人館の並ぶあたりは、同じ空の下でも江戸とは肌ざわりが違う。石畳の照りが白く、庭の木は剪り込まれて、どこか人の匂いが薄い。見物人の視線を背に感じながら歩くと、松吉が小さく舌を鳴らした。異人の町へ入ると、こちらが見られているつもりでも、いつの間にかこちらが見物になっている。


 ハリソンの自宅は錠が下りていた。そこで三五郎は隣家に住む同国人ヘンリーを訪ねた。団子坂の騒ぎで道連れになった男で、以来、奉行所へも幾度か出頭している。顔を見知っているので、ヘンリーはすぐに鍵を持って出て来た。


 親分と松吉は、異人館の中を珍しげに見て回った。板張りの床は靴の音を乾いて返し、部屋の隅に置かれた香油や石鹸の匂いが鼻につく。日本家屋のように、畳が人を受け止めてくれぬぶん、息まで落ち着かない。


 ヘンリーは片言の日本語を話したが、込み入った話になると通じが悪い。親分は何度か問い直し、やがて自分の不注意に舌打ちした。


「奉行所から通辞つうじを頼んで来りゃあよかったな……」


 そのとき、部屋の隅に三脚の機械があるのが目に入った。親分は指さして訊く。


「これ、何でぇ」


「フォト……シャシン、あります」


 写真。近ごろ横浜で流行り始めた、西洋の写し絵である。江戸でも噂だけは耳にしていたが、目の前に三脚を据えた機械を見ると、親分の目にひとつの好奇心が灯った。絵師が筆で写すのではなく、光で人を閉じ込めるというのだから、まるで狐の業みたいな話である。


 ヘンリーの話をつなぎ合わせると、ハリソンは商いのかたわら写真を弄んでいて、日本人の若い男がそれを習いに出入りしていたらしい。長崎の者で「シマダ」と呼ばれていた。年は二十七、八か、それとも三十前後。去年の火事で住まいを焼かし、ひと月あまりハリソンの家に厄介になったこともあるという。


 そして犬の話が出た。


 ハリソンの飼犬は、ただ殺されたのではない。目や舌や腹――言葉にするのも嫌なほどの仕打ちを受けて、川へ沈められていた。発見されたのは昨日の朝だという。ヘンリーは手真似でそれを語りながら、何が何だかわからぬという顔をした。親分も松吉も、その残酷さに背筋が冷えた。相手は犬である。そこまでやるのは、ただの八つ当たりでは済まぬ。


 親分はさらに問うた。


「そのシマダって男、写真はねえのか」


 ヘンリーは首を振ったが、ハリソンが撮ったことはあるはずだと言って、机の引き出しや手文庫をあさり始めた。やがて四、五十枚の写真が机の上へばらまかれた。風景や人物が、驚くほど鮮明に写っている。絵草紙の摺り物とは違い、そこに居た者の息遣いまで残っているように見えるから、不気味でもある。


 ヘンリーが一枚をつまみ上げた。


「ありました。これ、シマダさん」


 細面で、人品の卑しさはない。眼だけが妙に冷たく見えた。親分はそれを松吉と三五郎にも見せたが、二人とも首をかしげる。


 次に、ヘンリーが別の一枚を出した瞬間、親分と松吉は思わず身を引いた。


 女の写し絵である。肌に一糸まとわぬ姿が、容赦なく光に焼きつけられていた。そして両腕、胸のあたりに、蟹の彫物がある。鋏の形までわかるほどで、ただの入れ墨ではない。人を威すために彫った女の、あの異様な意地が写真の中で笑っているように見えた。


 親分は、ふところから息を吐いた。


「……こいつァ、蟹のお角だ」


 団子坂で姿をくらまして以来、行方の知れぬ女。その女が横浜の異人館へ出入りし、しかもこんな写し絵を撮らせていた。親分は胸の底で、ばらばらだった札が一枚ずつ揃う手応えを感じた。


 ヘンリーは、女はシマダの紹介で来るようになったと言う。彫物が珍しいので、ハリソンが頼み込んで撮影し、たっぷり金を渡した。女は神奈川に住んでいるはずだが、居どころは知らぬ――そこまで聞いて、親分はヘンリーに二枚の写真を借り受けた。シマダの顔と、お角の裸形。どちらも、今の詮議には欠かせぬ札になる。


 家を出るとき、ヘンリーは庭の片隅を指さした。妻アグネスが横たわっていた場所だという。大きな椿が青い蔭を作り、下草が湿っている。親分はそこを隈なく眺めたが、血の跡も、落とし物らしい物も見当たらない。犯人は慌てて逃げたのではない。用のないものは、きれいに持ち去っている。


 居留地を出て、港の方へ歩きながら、三五郎が言った。


「親分、妙な写真を見つけましたね」


「あっしも思わなかった。お角が異人館へ出這入りして、素っ裸の写し絵まで撮らせる。こりゃあ、まだ何をしているか知れねえ」


 親分は、借りた写真をふところで指先に確かめた。


「それからシマダって奴だ。あっしァ死骸を見てねえから断言は出来ねえが……大川へ抛り込まれて、額に『犬』と書かれていた男は、こいつじゃねえかと思えてならねえ」


 松吉が眉をしかめた。


「犬をあんなむごい殺し方をするってえのは、よっぽど恨みがあるんでしょうか」


「相手は犬だ。そこまでせにゃあ気が済まねえ恨み……。犬をなぶり殺しにして、そのうえ人間の額に犬と書く。犬が絡んでいるのは間違いねえが……」


 松吉が、ぽつりと言った。


「四国に犬神使いってのがあるそうで」


「横浜まで、そんなものが出て来るかよ」


 親分はそう言いながらも、顔を上げて、熱気の中に霞む空を見た。港町の風は潮を運ぶが、今日はぬるく、どこか血の匂いが混じるように感じられる。背中に陽が焼けつき、思考が汗で鈍る。


「……まあ、黙って少し考えさせてくれ」


 初秋の名ばかりの暑さの中、三河町の親分は、港の町をぶらぶらと歩いて宿へ戻った。ふところの二枚の写真は、紙のくせに妙に重かった。そこに写っているのは、ただの顔や肌ではない。人の欲と、怨みと、そして犬の文字が引く細い糸の先である。


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