表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
370/427

第一章:迎え火の煙

 文久二年の盆である。


 夏の盛りは過ぎたというが、夕方になっても土の熱は抜けず、家々の軒先からは湯気のような生ぬるい匂いが立つ。しかもその年の江戸は、麻疹の流行で町が疲れ切っていた。表通りの賑わいがどこか薄く、寺の鐘や読経の声が、いつにも増して耳につく。葬りの早桶が絶えず、町内の者が井戸端で顔を合わせても、まず「どこの家が倒れた」といった話になる。


 それでも盆は盆で、やるべきことはやる。神田三河町の半七の家では、門口に苧殻の迎え火を焚いた。ぱちぱちと青い火が走り、白い煙がほそく伸びて、宵闇へ溶けてゆく。迎え火というものは、祖霊を家へ導く目印である。火は小さくとも、江戸の町では盆の夕方になると、あちらこちらで同じ煙が立った。人は疫病に怯えても、死者との約束まで捨てはしない。


 半七とお仙は並んで手を合わせた。半七はいつもの温和な顔をしているが、団扇の動きはせわしなく、額には汗がにじんでいる。拝み終えて顔を上げたとき、迎え火の煙の向こうに、草履ばきの旅姿が立った。


「親分、ご無沙汰をいたしました」


 その声に、お仙が先に気づいて、眉を上げた。


「あら、三ちゃんかえ」


「ええ、三五郎でさ。迎え火を焚いてるところへ、飛んだお精霊さまが来やしたよ」


 男は笑いながら手をつき、煙を避けるように身をかがめた。高輪の弥平の子分、三五郎である。二、三年前から与力の出役に付いて横浜へ行っていたが、久しぶりの江戸の匂いに、どこか肩の力が抜けている。


「やあ、三五郎か。久しぶりだ。まあ、上がんな」


 半七はそう言って内へ通した。座敷へ入ると、蚊遣りの煙がほのかに漂い、薄い茶の香がする。お仙が冷やした茶を出し、漬けた胡瓜と焼味噌を小皿へ添えた。こういう肴が、暑気あたりの身体にはいちばん利く。


「江戸じゃ悪い麻疹が流行るそうで。どなたもお変わりが無くて結構で」


「まったくだ。悪いもんがはやると世間が沈む。横浜はどうだい」


「浜でも流行り出すそうですが、江戸ほどじゃござんせん」


 挨拶が済むと、三五郎は膝を寄せて言い出した。


「実は親分に無理を願いに出やした。横浜まで伸して下さいますめえか」


「横浜に何かあったのか」


「わっしらだけじゃ纏まりそうもねえことが出来しましてねえ……」


 三五郎の口ぶりは軽いが、眼の奥が笑っていない。横浜という土地は、言葉や習いの違う者が入り混じり、揉め事が起きるといちいち面倒になる。奉行所があっても、居留地の異人相手となれば、下手に動けば外交沙汰にまで膨らむ。戸部の奉行所へ訴えが来たというだけで、役人たちの眉は硬くなるのが常であった。


「去年の九月、異人三人が江戸見物に来て、団子坂でひどい目に逢った件、ござんしょう。男が二人、女が一人。男のひとりがハリソン、もうひとりがヘンリー。女がアグネス。ハリソンとアグネスは夫婦で」


「むむ。あっしもそれに係り合った」


「そのハリソン夫婦が、この八日の晩に変死でさ。亭主は寝台の上で喉を突かれて死んでいる。女房は庭の木陰に倒れている。下手人はさっぱり判らねえ」


 半七は団扇を止め、三五郎の顔を見た。


「女房も殺されたのか」


「殺されちゃいるが、こいつが少し可怪い。喉と足を獣物に啖われたらしいってんで」


「虎や獅子を連れて来たたァ聞かねえ。犬だろうな」


洋犬カメでさ。ハリソンの家にはでっけえ赤い洋犬がいたそうで。だが、その晩から犬のゆくえが知れねえ。異人どもは死骸を見せるのを嫌がって、口先で訴えるばかり。始末が悪うござんす」


 家の者は、富太郎という本所生まれの料理人と、程ヶ谷生まれのお歌という雇い女で、二人が出来合っていたことは白状したが、殺しは知らぬと言い張って落ちない。役人たちも一旦はその筋を疑って引っ立てたが、そこで行き詰まって、他を探り始めたという。


「わっしの考えじゃ、異人同士の揉め事じゃねえかと……。だが、犬を使って女房を啖い殺させたってのが、どうにも腑に落ちねえ。刃物で亭主をやるなら、女房も同じ刃物で済ませそうなもので」


「夫婦が殺されて、何か取られたものは?」


「それが、これぞという紛失も無えそうで」


「亭主をやった刃物は」


「大きいナイフだろうって話でさ。だが、現場に残ってねえ」


 半七はしばらく黙った。江戸の揉め事なら、道具も人間もだいたい見当が付く。しかし異人館の内側は、奉行所の役人でも自由に覗けるものではない。通辞ひとり介すにも段取りが要る。三五郎が「纏まらねえ」と言うのは、そこに根があった。


「行ってみてもいいが、あっしの一存じゃ返事が出来ねえ。横浜となりゃ旅だ。八丁堀の旦那に相談して、お許しを受けにゃならねえ。あしたの昼過ぎに、もう一度来てくれ」


「ようがす。久しぶりに江戸へ帰って来たついでに、顔出しする所もありやすから、あしたまた出直して来やす」


 三五郎は横浜土産らしい包みを置いて帰っていった。包みからは、見慣れぬ香りがした。舶来の菓子か、煙草か。異国の匂いは、盆の迎え火の煙と混じると、妙に胸につかえる。


 その三五郎と入れ違いに、多吉が顔を出した。半七の子分で、鼻が利き、世間の底を歩くのが上手い男である。


「たった今、横浜から三五郎が来たよ」


「そりゃ惜しい」と多吉は舌打ちした。「あいつ、この頃は景気がいいってぇから、見つけ次第に貸しを取り返してやろうと思ってたのに」


「いくらの貸しだ」


「三分さ」


「三分の貸しを執念ぶかく付け狙うほどの事もあるめえ」


 半七は笑ったが、その笑いはすぐに引っ込んだ。三五郎の話を多吉へひと通り聞かせると、多吉も真顔になった。


「そいつァ早く埒をあけてやらねえといけやせん。毛唐人に、日本役人は役立たずだなんて笑われちゃ癪でさ」


「大きく云やァ、そんなもんだ。――ところで、例の大川の一件だが」


 半七は、三五郎の話を聞いているうちに、胸へふいと浮かんだものがあった。多吉が先日、大川端で見かけた早桶のことだ。提灯も持たずに担いで来た二人が、多吉とすれ違った途端に慌てて桶を川へ投げ込み、逃げた。引き揚げた桶の中には、三十前後の男の死骸が裸で入っており、額のまん中に太い字で「犬」と書かれていた。


「横浜で死んだ女異人は洋犬に啖い殺されたって。江戸と横浜じゃ離れ過ぎてるようだが、世の中はどこで糸がつながってるか判らねえ。どっちも犬に縁があると思うとな……」


「そう云やァ、そんなものかも知れねえが」と多吉は首を傾げた。「横浜で殺したもんを、わざわざ江戸まで運んで来るたァ考えにくい。あっちにも捨て場所は幾らでもありやす」


「理窟はそうだが、理窟で押し切れねえことがある。留守を頼む。おめえは大川の一件を根よく調べてくれ」


「親分は浜へ?」


「あっしは横浜へ行って、ひと働きしてみる。松吉を連れてく。去年も一緒に行って、土地の勝手を知ってるはずだ」


 多吉はうなずき、帰りぎわに言った。


「去年の十月に横浜は焼けたって話でさ。町家がずいぶん焼けたそうで」


「異人館は無事だと聞く。火事を逃れても、夫婦が殺されちゃ何にもならねえ。――浪士の斬り込みなら刀でばっさりやる。小刀で喉を突くとか、犬を使うとか、そんな小面倒はしねえだろう」


 多吉が去ると、半七は旅支度にかかった。横浜までは一日の道中に過ぎないが、当時の江戸者にとっては、品川を越えるだけでも「旅」の気分になる。笠と草履は新しい方がいい。お仙は黙って頷き、翌朝の買い物の段取りを頭の中で組み立てている。


 迎え火の灰は、もう黒く冷えていた。盆の宵の空に、麻疹の町の重たい気配がのしかかる。その下で、半七の胸には、川へ投げ込まれた早桶の「犬」の字と、居留地の庭で喉を啖われた女の影が、いやでも重なって見えていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ