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第三章:狐の爪あと

 松吉の報告は、朝の風よりも冷たかった。十月朔日、六ツ半(午前七時ごろ)に、谷中の市子いちこ――おころの死骸が見つかったという。しかも家の中ではない。団子坂下の空地、あの草むらの古祠の前に、仰向けに倒れていた。


 三河町の親分は松吉を連れて、すぐに根津から坂へ急いだ。菊人形の賑わいは、季節の終いを惜しむようにまだ続いていたが、空地のほうは別世界である。草は露を吸って重く、踏み込むたびに水気が足袋へ滲んだ。


 検視はちょうど終わったところで、丹沢五郎治が袖口を払って立っていた。彼は半七を見るなり、顔をしかめる。


「半七、早えな。……またここで変なことが始まったよ。この草ッ原はどうも鬼門だ」


「まったく困りやした」


 半七は挨拶をすませ、死骸のそばへ膝をついた。おころは髪をふり乱し、胸元をはだけ、片手に白い幣束へいそくを握ったまま死んでいる。目は大きく剥いたまま、まるで草の奥にまだ何かを見ているようであった。


 喉元が異様だった。絞め殺しと云うより、鋭い爪で左右を深くえぐられた痕があり、その筋から血が流れ、枯草を赤く染めている。爪あとが三筋、いやもっと――。獣の仕業のようにも見え、しかも妙に人間くさい。


 あたりの者は囁き合っていた。狐使いが狐に殺されたのだ、狐が妬いたのだ、食い物を与えぬから怨んだのだ、と。江戸の噂は、火の粉よりも早く飛ぶ。なかには真顔で拝む者までいて、空地の草むらが一層陰気に見えた。


「狐に殺されたって噂だが、まさかそんなこともあるめえ」


 丹沢が苦笑した。


「だが、爪のあとがちっとおかしい。よく調べてくれ。頼むぜ」


 検視役人が引き揚げると、死骸は長屋の者に渡され、通夜は相長屋で営まれ、翌日近所の寺へ葬ることになった。息子があるらしいが、居どころがわからず、知らせる宛てもないという。


 その夜、亀吉は谷中三崎の露路のあたりをうろつき、半七と松吉は団子坂下の荒物屋を足溜まりにして、空地を見張った。昼からの風は宵に止んだが、夜更けの冷えは骨に沁みる。荒物屋の女房が気をきかせて、小さな火鉢に炭団たどんを入れてくれた。炭の匂いがほの甘く、湿った畳の上で赤い火が静かに息をする。縁の下では、鳴き弱ったこおろぎの声が切れ切れに聞こえた。


 九ツ(午前零時)を過ぎた頃だろう。表の暗がりで犬が吠えた。一本ではない。二匹、三匹と続き、声が次第に近づいて来る。


いやですねえ。ゆうべも夜なかに犬が吠えましたよ」


 女房が囁く。半七は火鉢の前から立ち上がり、松吉と顔を見合わせた。月はないが星の光が冴えている。二人は足音を盗んで外へ出た。


 犬の群れは、草原のほうへ向かっている。枯草を踏む、がさがさという足音が混じる。人の足か獣の足か判じにくいが、何者かが草の奥へ忍び込んだのは確かである。半七は息を殺し、犬の声の流れに沿って祠のほうへ回り込んだ。


 祠の前で、犬どもが吠えるのをやめ、低く唸った。黒い影がひとつ、祠のあたりで身をかがめているらしい。半七は声をかけた。


「もし。おまえさんは誰でえ」


 返事はない。


「御用で張り込んでいる。返事がねえと、つかまえやすぜ」


 それでも黙ったまま。松吉がにじり寄って手をかけようとした途端、影はするりと摺り抜け、草むらへ溶けた。闇が生き物のように動く。犬がまた吠え出し、草の上を這って行く音がした。


 半七は走りかかって押さえた。腰のあたりへ手をかけたとたん、相手が跳ね起き、両手で半七の喉を絞めようとした。力は強い。半七は手首を取って捻じ伏せ、草の上へ押し倒した。


「親分、つかまりやしたか」


「仕方ねえ。石橋山の組討ちだ。……だが、女でえ。女でえ」


 荒物屋の灯の前へ引きずり出された曲者は、六十前後の老女だった。身なりは旅の者のようにやつれているが、眼の奥に妙な光がある。そして何より――両手の爪が異様に長い。人差し指、中指、薬指の爪が一寸ほども伸び、先が鋭く尖っていた。あの喉の爪あとが、いやでも思い出される。


 半七は店の框に腰をかけ、静かに訊いた。


「どこの者でえ」


「信州から来ました」


 老女の答えは案外おとなしい。言葉遣いに、下品な荒さがない。


 信州と聞いて、半七の胸にふっと、戸隠山の鬼女の噂がよぎった。芝居にも講釈にも出て来る筋である。もちろん、そんなものを本気で信じる親分ではない。だが、江戸の仕事というのは、迷信を笑い飛ばすだけでは片づかぬ。迷信を信じる人間のほうが、現にこうして往来に息をしているからだ。


「名は」


「お千と申します」


「江戸へはいつからだ」


「この六月に……」


「おころを殺したのは、おめえでえな」


「はい」


 あまりに素直な白状に、松吉が息を呑んだ。半七は目を細めた。


「今夜はここへ何しに来た」


「狐を取りに来ました」


 お千は自分の来し方を語った。若いころ信州のある社の巫子みこだったが、のちに市子となり、管狐くだぎつねを養ったという。管狐は姿を見せず、細い管の中にひそむ。その狐の教えで人の吉凶や失せ物を占う――そういう話は、江戸の下々なら誰もが一度は聞く。だが、信じるか信じぬかは別として、その語り口は、作り話の軽さではなかった。


 十一年前、信州から江戸へ出ようとして甲州の石和いさわあたりで病に倒れ、木賃宿同然の宿で看病してくれた女がいた。それが、おころだった。女同士、同商売の気安さで油断し、管狐のことを漏らした。半月ほどして起き上がれるようになると、おころは狐を盗んで姿を消した。


 お千は狂ったように追ったが、行方は知れぬ。江戸を探し、出羽奥州を回り、東海道、中仙道、京、大坂、伊勢路、北国筋――足かけ十一年、日本の半分をさまよい歩き、今年六月に再び江戸へ戻った。九月の初め、上野の広小路でおころを見つけ、尾をつけて谷中三崎の家を突き止めた。


 問い詰められたおころは、狐は道灌山のあたりに隠してある、夜更けに取り出して返すと誓った。だが、それが嘘だとお千は睨んだ。昨夕、池の端で再び逢い、今夜こそはと迫ると、おころは「団子坂の空地の古祠の中に隠してある」と云い、九ツ過ぎにここで会おうと約束した。


「来てみると、おころはひと足先に来ていました。祠の扉をあけても狐はいない。逃げたと云うのです。でも、わたくしは信じません。わたくしをだまして、またどこかへ隠したに違いない。……それで、殺しました」


 お千の眼が、窪んだ奥でぎらりと光った。


「今夜は、念のためもう一度、さがしに来たのです」


 半七は、長い爪を見つめ、火鉢の赤い火を見た。狐が本当にいたのか、いなかったのか。だが、爪はここにあり、死人はあそこにある。噂の怪談は、こうして人間の血ででき上がる。


 お千はそのまま縛られ、役所へ引き渡されることになった。団子坂の草原に吹く風は、菊人形の賑わいとは無縁に冷たく、芒の穂を硬く鳴らした。半七の胸には、馬の一件がまだ残っていた。狐の筋はこれで埒があいたが、二匹の馬の行方は闇のままである。闇は一つ晴れても、別の闇が残る。江戸の仕事はそういうものだった。


 半七は松吉に云った。


「今夜はひとまず終いだ。……だが、御用は、まだ終わっちゃいねえな」


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