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第二章:谷中三崎の露路

 半七と幸次郎は荒物屋の店を出ると、もう一度、坂下の空地の真ん中へ戻った。菊人形の見物人の波は、坂の上でうねっているだけで、草原のほうへは熱が届かない。芒の穂は乾きはじめ、踏めば枯草がかさりと鳴る。秋というものは、賑わいの裏側に、急に冷えた土の匂いを置いてゆく。


「親分、祠を覗いてみやしょう」


 幸次郎が先に立ち、草を分けて古祠へ近づいた。間口は九尺に足りぬ小さな社であるが、柱も扉も案外しっかりしている。二十年余も雨風に晒されながら、いまだに形を保つのは、もとは武家屋敷の内にあったからだろう。


 扉をあけて覗くと、神体らしいものはない。古びた八束台の上に、白い幣束へいそくが一本、ぽつんと乗っているばかりであった。だが、その紙が妙に新しい。


「……この御幣は、あの市子が納めたんでさ」


 幸次郎がつぶやく。半七は黙って頷き、祠の隅々まで目を走らせた。煤けた板の匂い、湿り気を含んだ土の冷たさ。祠のうしろへ回っても、草の奥へ踏み込んでも、手がかりになるような拾い物はない。狐使いだの祟りだのという噂が、ただ噂のまま漂っている。


「まあ、ここはこのくらいで引き揚げるでさ」


 半七はようやく口をきいた。江戸の探索は、焦っても獲物は出ぬ。今は、掴める糸口を掴むしかない。


「幸次郎。おめえは、蟹のお角って女の居どころを突き留めてくれ。あっしは足ついでに谷中へ回って、三崎をうろついてみる」


「へえ、合点でさ」


 二人はそこで別れた。


 半七が谷中のほうへ足を向けると、町の匂いが少し薄くなる。千駄木せんだぎの坂下から藍染川を渡り、笠森稲荷のあたりを横に見ると、寺が多い土地柄のせいか、往来の声もどこか控えめである。石段の上から、線香の甘い煙がすうっと流れて来て、風に乗った拍子に鼻の奥へ残った。寺町の暮らしは、鐘と読経で区切られる。そのぶん、人の噂もまた、鐘の余韻みたいに遅れて響くのだが、いったん火がつくと、どこまでも沁み込んでゆく。

 門前町の小さな蕎麦屋から、つゆの甘い香りが流れて来た。江戸の外れというものは、こうして町と田舎の境が曖昧で、塀ひとつ越えれば畑があり、寺の土塀の陰に猫がうずくまっている。


 半七は三崎と呼ばれる辺りで、市子のおころの家を訊ね歩いた。こういう女は、派手に看板を出すより、露路の奥で息を潜めるように暮らしているものだ。教えられた先は、蕎麦屋と草履屋のあいだの狭い入口で、入ってみると、奥は意外に広い空地になっていて、近所の物干し場に使われている。入口が狭いのに奥がひらけている露路は、火除けのためとも、屋敷割の名残ともいわれるが、江戸の下町には案外多い。


 おころの家は格子もなく、土間は明け放しで、小ぢんまりした二間ほどの住居である。がらくたが積んである様子はなく、貧しいなりにも、几帳面に片付けられている気配があった。隣家の女房が顔を出して、半七を値踏みするように見た。


「おころさんなら、さっき帰って来ましたが、すぐまた出て行きましたよ」


「近ごろ、何か変わった様子はねえか」


 半七が訊いても、女房は口を濁す。壁一枚隔てて住みながら、江戸の者は他人の家の内に深入りはしない。まして狐使いの噂が立つ女なら、なおさらである。それでも半七がゆっくり話を運ぶと、女房の口から、ひとつだけ零れた。


「よくは知りませんが……おころさんには息子がいるそうで、どこかの屋敷奉公をしているって」


「侍じゃあるめえ。足軽か中間ちゅうげんだろうな」


「まあ……そんなところでしょうね」


 占いを頼みに来る人間が多いかと訊けば、「ここへ来る人は少ない。大抵は、おころさんが出て行く」と云う。狐を連れて出るのかと冗談めかすと、女房は目を伏せて、それきり黙った。


 半七はそれ以上、無理にこじ開けなかった。狐使いが本当に狐を飼っていようがいまいが、町方が手出しするのは、実害が見えてからである。今のところ、半七が追うべきは馬泥坊だ。だが――屋敷奉公をしている息子、という言葉が、胸の底に小さく残った。


 神田の家へ戻ると、お仙が夕餉の支度をしていた。鰯のつみれを入れた汁の湯気が立ち、刻んだ葱の青い匂いが畳に落ちる。半七は手を洗いながら、今日見た草原の冷えと、新しい御幣の白さを思い出していた。


「先生方の異人騒ぎってのは、まだ尾を引きますか」


 お仙がぽつりと云う。


「尾を引くでさ。相手が異人となりゃ、こっちの面子だけで済まねえ」


 半七の声は、いつもより低かった。


 その晩、亀吉が来て、方々の博労をあたってみたが、馬を売りに来た者は聞かぬと報告した。生き馬は隠しきれぬ。どこかの大きな農家か、武家屋敷の厩に繋がれているはずだが、まだ鼻先が見えない。


 翌日の午過ぎ、幸次郎が息を切って飛び込んで来た。


「親分。蟹のお角の居どころが知れました。浅草の茅町一丁目、第六天の門前に小さい駄菓子屋がありましてね。おそよって婆さんと、お花って十三四の孫娘の二人暮らし。その二階の三畳に、お角がくすぶってます」


 幸次郎の話では、お角は若い時分から矢場女をしたり、旦那取りをしたり、酒も博奕もやる。近所の手前、婆さんも追い出したいが、女が居座って動かぬ。近江屋の通い番頭をひっかけて、三十両だの五十両だの巻き上げた噂まであるという。


「異人の紙入れに幾ら入っていたかは知らねえが、ああいう女が手を出すには、相当の餌だったろうな」


 半七は、火鉢の灰を指先でならしながら云った。異国の金なら使い道がない。両替屋へ持ち込めば藪蛇になる。お角が紙入れを抜いたとしても、それをどう捌くか。そこにも相棒がいるはずである。


「相棒はどんな野郎でさ」


「婆さんの話じゃあ、男が四、五人、入れ替わり立ち替わり来るそうで……。その中で近しく出入りするのが、長さんと平さん。平さんってのが、お角の男らしいって」


「平さん……居どころは」


「確かじゃありやせんが、本郷片町あたりの屋敷にいる奴だとか」


 本郷片町、屋敷勤め。半七の胸の底で、谷中で聞いた言葉が、音を立てて繋がった。おころの息子も屋敷奉公をしている、と云っていた。世間は広いようで、こういう糸は不意に絡み合う。


「幸次郎。駄菓子屋の近所に網を張って、その平さんが帰る時に尾をつけろ。なんという屋敷の、何者かまで突き留めるでさ」


「へえ、承知でさ」


 幸次郎が帰ってから二日ばかり、音沙汰がない。亀吉と善八も手を分けて近在をあたったが、馬を売った噂は依然として立たぬ。半七は、厩のある武家屋敷や大きな農家に、ひそかに注意を回すように云い含めた。生き馬は、どこかで必ず息をする。息をするものは、いずれ匂いを漏らす。


 十月朔日ついたちの朝である。夜明けから、急に冬めいた風が吹き出し、障子の隙間が鳴った。お仙が火鉢に炭を足しているところへ、松吉が顔色を変えて駈け込んで来た。


「親分。おころという市子が――殺されました」


 半七は、膳の箸を置いたまま、黙って松吉の顔を見た。谷中の露路の奥、あの几帳面な家の空気が、ふいに冷たい血の匂いへ変わる。草むらの古祠の白い御幣が、目の前に浮かんだ。



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