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第一章:草むらの古祠

 文久元年九月二十六日の朝である。菊人形の見物人で浮き立っていた団子坂の騒ぎは一昨々日から江戸じゅうへひろがり、町奉行所の詰所にも、東禅寺からの掛け合いにも、いやな火の粉が降りつづけていた。


 八丁堀同心の丹沢五郎治の屋敷で「半七、骨を折れ」と命じられた三河町の親分は、神田の家へ戻ると、主だった子分どもを集めて、手短に相談をした。誰が博労をあたる、誰が近在の厩を探る、誰が団子坂の様子を聞き出す――。こういう仕事は、派手に立ち回るより、地味に網を張るほうが獲物がかかる。半七は腹の底で段取りを決め、幸次郎を連れてまず現場へ出ることにした。


 団子坂へ向かう道は、秋の匂いが濃い。根津を抜けると、坂のほうから人の波のざわめきが風に乗って来る。菊細工の季節だけ、普段は裏長屋のように静かなあたりが、芝居の桟敷みたいに熱を帯びる。坂の両脇には町屋が続くが、裏へ回れば武家屋敷の塀と寺の生垣、畑のあぜ道が覗いている。江戸という町は、角をひとつ折れるだけで景色が変わる。


 休み茶屋へ入ると、煎茶の青い香りに、焼き団子の焦げがまじった。茶屋の女が、菊人形の忠臣蔵を褒め立てながら、例の騒ぎも口にした。女は声をひそめるでもなく、かえって調子づいたように言った。


「だってねえ親分さん、異人の臭いってのは、鼻につくもんでござんすよ。東禅寺だの、横浜だの、あたしらにゃ関わりのない話だと思っていたら、こうして団子坂の坂道へまで上がって来る。人だかりの中へ、あんな背の高い連中が馬で入って来りゃ、誰だって腹のひとつも立ちますよ」

 異人にすれ違いざま、年のころ二十八九の小粋な女が紙入れを抜いた――らしい。だが、女は取り押さえられても品物が出ず、泣き声で云いがかりだと喚いた。あとは弥次馬が火事場のように膨れ、袋叩きになった――。


 半七は、女の人相風体を、ひとつひとつ確かめた。幸次郎は頷きながら、茶碗を置いて小声で云った。


「親分、今の話で大抵わかりました。そいつぁ蟹のお角でさ。両腕に蟹を一匹ずつ彫っている女ですよ」


「蟹のお角……。巣はどこだ」


「巣を決めちゃあいねえらしいが、お角とわかりゃ、探りようはあります」


 半七は声に出しては笑わなかったが、胸の内で「なるほど」と思った。巾着切りは、手癖と同じくらい、評判が武器になる。名の立った女が、一人で人込みへ紛れ、袖から袖へ魚のようにすべる。そういう芸当は、江戸の裏に棲む者の常である。


 二人は茶屋を出て、坂下の空地へ回った。そこは五、六百坪ほどの草原で、芒が腰のあたりまで伸び、野菊がところどころ白い。榛はんの木が五、六本立っていて、馬を繋いだ跡らしい踏み荒らしが残っている。背後には小笠原家の下屋敷の広い塀、片側には古い寺の生垣、もう片側には百姓片手間の小さな店が二、三軒、ひっそりと並ぶ。菊人形の賑わいから、ほんの一歩外れると、草の匂いと土の冷えが戻って来た。


「馬を盗んだのは素人でしょう」と幸次郎が云う。「商売人なら日本馬か西洋馬か、馬具を見りゃすぐ判る。西洋馬なんぞ売りに行きゃ足がつくんで、盗むなら日本馬を引っ張る。そこへ気がつかねえのは、手あたり次第に持って行った素人でさ」


 半七は首をかしげた。鞍も鐙も手綱も、いっさいの拵えが違う。素人でも、異国の馬具の物々しさくらいはわかるはずである。まして、二匹とも連れて行けるほどの胆力と手際があるなら、むしろ素人ではない。だが、草が深く、拾い物ひとつ探すにも手がかりがない。半七は空地をひと回り見て、地続きの百姓家へ訊ねる腹を決めた。


 その時である。草むらに沈むように見えていた古い小祠のうしろから、ふいに女の姿が現れた。五十を越えるかという老女で、片手に小さな風呂敷包みと梓あずさの弓、片手に市女笠いちめがさを持っている。梓の弓を鳴らし、口寄せをする市子いちこ――江戸の下々が怖れ半分に頼る、あの女である。白昼でも、ああいう者が草の奥からぬっと出て来ると、喉のあたりがひやりとする。


「もし。おまえさん方は、探し物でもしていなさるのか」


 幸次郎が曖昧に「落とし物で」と答えると、老女は笑った。


「おまえさん方の探す物は、ここらじゃ見付からないはずだよ。もっと西の方角へ行かなければ」


 市子の口から方角を告げられても、半七らが真に受ける道理はない。二人は「ありがとう」と笑って歩き出したが、老女は黙って一間ほどの距離を置き、男のようにすたすたと後をついて来る。尾をつけられるのは、親分でも気持ちのいいものではない。


「おめえ、あすこで何をしていた。祠を拝んでいたのかえ」


 幸次郎が訊いても、老女はしばらく黙って、やがて「神様です」とだけ答えた。


「何の神様だ」


「知りません」


「家うちはどこだ」


「谷中の三崎さんさきです」


「商売は繁昌するかえ」


「繁昌します」


 冗談とも本気ともつかぬ問答のうちに、二人は百姓家の前へ出た。荒物を少し売る、小商いの店である。十歳ばかりの男の児が店先に立っていたが、半七らを見ると慌てて内へ逃げ込み、指をさして叫んだ。


「狐使いだよ」


 女房が奥から出て来て、子を叱りながら、ちらりと表を覗く。市子の老女は、もう背を向けて谷中のほうへ歩いていた。女房は小声で云った。


「あの市子さんが来ると、子供たちはみんな、狐使いが来たって逃げるんで……」


 半七が、あの空地の祠のことを訊くと、女房は幼い頃から聞いた話として語った。昔そこには臼井様という小旗本の屋敷があった。訳あって主人は切腹、屋敷はお取り潰しになり、それきり二十年余、草原のまま放ってある。祠はその屋敷内にあったものらしいが、何を祀ってあるか、誰も知らない。手入れをしようと言い出す者があっても、祟りが怖くて腰が引ける。そこへ近ごろ、谷中の三崎に住む市子が毎日詣って来るので、なお気味が悪い――。


「名は、おころさんと申すそうです」


「おころ……。めずらしい名だな」


 半七は、それ以上その話に深入りしなかった。狐使いだの祟りだのは、江戸の町にいつも漂う煙のようなものだ。だが、煙の匂いに混じって、時にほんものの火薬の匂いがする。親分は、そういう匂いだけは嗅ぎ落とさない。


 半七は話を戻して、一昨々日の異人騒ぎを訊いた。女房は大きく頷く。


「異人を殺してしまえって、大勢が追っかけて来ました。どうなることかと思いましたが、まあ逃げたそうで……。馬が二匹なくなったのは、ほんとに不思議です」


「誰か牽いて行ったのを見た者はあるのかえ」


「いいえ。確かに見たって人は……。ただ、年増のおんなが引っ張って行ったって噂があるだけで」


 半七は、女房の言葉の切れ目に、秋風の冷たさを感じた。噂というものは、芒の穂のように揺れて、どちらへでも倒れる。だが、揺れの向こうに人の影がある。年増の女――蟹のお角。市子のおころ。草むらの古祠。二匹の馬。


 三河町の親分は、店先の薄暗がりで、坂上の人波のざわめきを聞きながら、黙って一度、空地のほうを振り返った。草の匂いの底に、まだ名のつかぬ違和感が、ひそんでいるように思われたのである。


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