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第四章:幽霊小屋の左道

 やがて松吉が戻って来た。


 浅草の観世物小屋では、当日お半が来る前、客足がしばらく途切れていたという。お半が木戸をくぐったあと、少し間を置いて若い男が一人、さらに男と女の二人連れ、その次に長助――順は前に聞いた通りで、木戸番どもも、脅されると案外に口が軽い。肝腎なのは、その三人の人相と年頃と風俗である。


 松吉の言葉を聞きながら、三河町の親分の腹の中に、ふっと灯がともった。理屈で組み立てた推量が、匂いの方から確かな形を取って来る瞬間である。親分は表情を動かさずに頷き、最後まで聞き終えた。


「よし。いよいよ取りかからなければならねえ」


 親分は手を払うように言って、段取りを決めた。松吉は木戸番に顔を覚えられている。おまけに、粗っぽい詮議はすぐに裏へ回る。そこで善八に亀吉を付け、二人を裏手へ回して右と左の出口を見張らせる。親分は客の振りで表から入る。あとは臨機応変。約束は翌日の午まで、間違いなくということになった。


 あくる日は、からりと晴れて、また少し暑くなった。暑さは厄介だが、人の顔を隠すには都合がいい。親分は白地の手拭を日除けのように頬かむりして、浅草仁王門のそばまで出た。小屋の前は相変わらずの人だかりで、看板の幽霊が風にばたばた鳴っている。善八と亀吉は、ひと足先に来て、何気なく看板を眺めていた。互いに挨拶はしない。親分が眼で知らせると、二人は心得て裏へ回った。


 木戸銭は十六文。こういう銭は、今の金に換算してどうこう言うより、指先で弾けば軽く鳴る、あの銅の冷たさを思えばよい。親分は銭を払って、ただの物見の顔で木戸口をくぐった。


 狭い薄暗い路が始まる。獄門首、骸骨、血の池――拵え物と判っていても、湿った匂いと狭さが胸を詰まらせる。二筋道の曲がり角で、親分は迷わず左を取った。どこかで鬼火の青白い光が揺れ、袖が血だらけの手に引かれる。姙はらみ女の死骸をまたがされ、蝙蝠が顔を撫でる。


 もう来る――と思う刻、髷のあたりを掴む者があった。


 親分は身を沈めて、その手首を外へ払うように切り、つづけざまに肘で打った。暗がりの上から、猿のような影が枝からころげ落ちる。

『馬鹿野郎』

 半七は息の匂いのする距離で、横っ面をぽかりと張った。


 爪の長い手がずるりと引いた瞬間、親分はその手を取り、あべこべにぐいと引いた。枝の上の影がころげ落ちる。透かして見ると、猿のような姿である。


「馬鹿野郎」


 親分が横っ面をぽかりと張ると、怪物はあっと悲鳴を上げた。続けて二つ三つ叩く。


「なんだ、てめえは。変な物に化けやあがって。そっちの幽霊も、ここへ出て来い。あっしは御用聞きの半七だ。逃げると承知しねえぞ」


 御用聞きの名に、猿は小さくなり、柳の下の女の幽霊も思わず膝をついた。行く先の藪のかげで、さがさがと音がして、仲間が身を隠す気配がある。


 ここが肝であった。左の路を抜けた者に景品の浴衣地をやるというが、十六文で反物を持って行かれては商売にならぬ。そこで左には、拵え物に混じって「本当の幽霊」がいる。役者や小僧が化け物に化けて、手を替え品を替え、人を脅して引き返させる。昔からある悪だくみで、親分も噂には聞いていた。


「てめえは猿か。名は何てえんだ」


「源吉と申します」


 声はまだ子供で、十三、四の小僧だった。


「そっちの幽霊は」


「岩井三之助と申します」


 幽霊役は、両国の百日芝居に出る女形であった。百日芝居というのは、定小屋の芝居に比べてあちこちへ流れてゆく興行で、役者も腹を括って荒場をくぐる。だが、こういう観世物に身を落とすのは、よほど懐が寒いか、背中に事情がある。


 親分は捨石に腰を下ろし、二人へ言い含めた。


「先月の末、照降町の駿河屋の女隠居が、ここで頓死した。てめえ達の脅かし方が悪かったんだろう。隠さず言え」


「違います、違います」


 二人は声を揃えた。


「それじゃ、誰が殺した」


 二人は顔を見合わせた。親分は声を落とし、逆に重くした。


「言わなきゃ、てめえ達が殺したことになる。人を殺して無事に済むと思うな。――女隠居と一緒に、若い男が来たろう」


「まいりました。隠居さんは怖いから忌だと言うのを、男が無理に連れて来たようで」


「そのあとから男と女の二人連れが来た。――この三人のうちで、誰が隠居を殺した」


 三之助が恐る恐る頷いた。


「あとから来た男でございます」


 源吉と三之助の話は、暗がりの出来事を、息の詰まるほど生々しく語った。源吉が女の髷を掴むと、女がぎゃっと言って若い男へ抱き付く。三之助が手を上げて招くと、また女がきゃっと言って男へしがみ付く。その瞬間、後から来た男が駈け寄り、鉄槌のようなもので女の髷のあたりを叩いた。女はそれきりぐったり倒れ、男同士は小声で何事か言い合って、怱々(そうそう)と引き返した。連れの女は後ろから眺めていただけで、黙って立ち去った。


 眼の前で人殺しを見ながら口外しなかったのは、自分たちの秘密が露見するのを恐れたからである。観世物小屋に生きた人間が忍ばせてあると噂が立てば、商売は潰れる。咎めも重い。だからこそ、死人が出ても素知らぬ顔をしていたのだ。


「よし。いずれまた呼ぶ。そん時も、今みてえに正直に言え」


 親分は二人へ釘を刺し、左の裏口から出た。そこに亀吉が待っていた。善八もすぐに回って来る。


「どうでした、親分」


「もういい。八丁堀へ行って、旦那へ話を通す。手配りが要る」


 歩きながら親分は小声で言った。


「駿河屋の女隠居を殺したのは三人だ。若い男は信次郎で間違いねえ。女は列び茶屋のお米だ。もう一人の男が判らねえ。年は四十ぐれえで、堅気らしい風体だとよ」


「音造じゃありませんか」


「そうじゃねえらしい。――そいつが手を下した本人だ。下手を打って逃がしちゃ物にならねえ。信次郎もお米も、あとでいくらでも挙げられる」


 善八は、お米の身内に大工のような商いの者がいないか洗うと請け合って別れた。親分は八丁堀へ向かった。


 日が暮れて、涼しい風が吹き出した。昼の汗が引き、油断すれば寝冷えすると笑いながら、親分は四つの鐘を聞いて床へ入った。


 その夜中である。


 戸を叩く音が急で、松吉が息を切らして飛び込んだ。


「親分、てえへんなことが出来やした。駿河屋の信次郎が刺されました」


「駿河屋が……」


 親分は跳ね起きた。


「まだ死にゃしねえが、もう難しいって噂です。今夜の四つ過ぎ、清五郎って男と一緒に、どこかで酒を飲んだ帰りらしい。親父橋のたもとの柳のかげから、一人の男が飛び出して、不意に信次郎の横っ腹を……」


「相手は誰だ」


「音造で」


 松吉の話では、音造は刺して逃げかかり、連れの清五郎が追って押さえようとした。音造は匕首を振り回し、そのはずみに清五郎は右手を少し切られたが、人殺し人殺しと喚き立てたので近所の者が駈け付け、音造は取り押さえられた。信次郎は駿河屋へ運び込まれ、医者が手当てをしているが急所が深い。


「清五郎ってのは何者だ」


「向う両国の大工だそうで。駿河屋で建て増しの相談があるとかで、いっしょに飲んで、照降町まで送って帰る途中だって申し立ててます」


 親分は忌々しそうに舌打ちした。音造も人殺しだが、今の話の筋だと、清五郎がやけに都合よく信次郎のそばにいる。しかも両国の大工。幽霊小屋の暗がりで鉄槌を振るった男の影が、ぬっと立ち上がる。


 だが、ここは住吉町の縄張りである。親分が踏み込めば、仲間筋の義理が立たぬ。顔を出したのは住吉町の竜蔵だと松吉は言った。こうなれば手柄の取り分も、段取りも、外せない。


「もう一度、親父橋へ行け」


 親分は松吉へ言い含めた。


「竜蔵に言え。その清五郎って奴は大事の科人だ。逃がしちゃいけねえ。明日の朝、あっしが行くまで厳重に番をしておけ。音造も人殺しだが、それを押さえた清五郎も人殺しだ。うっかり逃がすと事こわしになる。――いいか、訳をよく言って聞かせろ」


 松吉は深く頷き、闇の中へ駈け出して行った。親分は蚊帳の外に座ったまま、冷えて来た夜気を肌で感じていた。幽霊小屋の左道で聞いた話が、いま、現し世の柳の下で血に変わって動き出したのである。

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