表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
361/427

第三章:掃部宿の茗荷畑

 観世物小屋の一件は寺社方の支配内である。町方が手を出すには筋を通さねばならぬ。三河町の親分は翌朝、八丁堀の同心屋敷へ出向いて、浅草で起こった変死の次第と、自分の腹にある見込みを手短に申し立て、寺社方への通達の口を頼んで帰った。寺社方には捕り手がない。承諾さえ取れれば、町方の人足が動いても差し支えはないのである。


 その足で親分は、北千住の掃部宿(かもんじゅく)へ向かった。きょうは朝から曇って、ここ二、三日のうちでも取り分け涼しい。八月といっても旧暦であるから、風の肌触りはもう秋の口を覗かせる。千住の宿を抜けて長い大橋を渡ると、荒川の水が冷やかに流れていた。水面は鈍い鉛色で、橋の欄干に寄ると、川風が汗をすっと引いてゆく。


 掃部宿の丸屋という質屋を訪ねると、すぐに場所が知れた。質屋といっても半分は農家で、家並みの奥には畑がひろがり、裏手には家作の普請が二軒かかっていた。大工や左官が出入りし、槌の音が曇り空へ乾いて響く。


「もし、長さんは来てますかえ」


 親分が大工の小僧に訊くと、小僧はあたりを見回して、一人の若い男を指さした。二十三、四の職人であるが、しるし半纒も着ず、浴衣一枚で猫柳の下に突っ立って、ほかの者の仕事をぼんやり眺めている。よく見ると右手を白布で巻き、頬にも掠り疵が二、三つあった。喧嘩のあとのように見えるが、職人の喧嘩にしては顔つきが冴えない。


「おめえさんは大工の長さんだね」


「へえ、そうで」


 長助は答えたが、その目が落ち着かず、親分の顔を恐れるように見上げた。松吉の身分も、親分の名も、職人仲間なら大抵は耳に入っている。


「おととい、(うち)の松吉が、おめえに逢って浅草の話を聴いたそうだがな……」


 長助の顔色がさっと変わった。親分は、それを見落とさずに、七、八間ほど離れた茗荷畑のそばへ誘い出した。畑の土は湿り気を残し、踏めば草いきれが立つ。


「きょうは仕事を休んでるのか」


「へえ……」


「怪我してるな。友達と喧嘩でもしたかえ」


「へえ、詰まらねえことで……」


 喧嘩なら、こんな怯え方はしない。親分は、そこで腹が決まった。

 大工の若い衆であれば、喧嘩傷は、見せびらかすように笑って誇る。しかも多勢に無勢だ。気風(きっぷ)の良さ、鯔背(いなせ)さ、意気……なんによせ、しつこいくらいに、自慢をし、相手は5人だ、いや10人は居たと、話が大きくなるのがこういう若者の道理というものだ。

 だが長助のそれは、隠したい疵の顔をしていた。殴られたのではない。殴られて“黙らされた”顔である。


「おい、長助。おめえ、友達と喧嘩したんじゃあるめえ。きのうも仕事を休んだな」


 長助は唖のように黙った。親分は畳みかける。


「きのう休んで、浅草へ行ったろう。幽霊の小屋へ行って、何か()()付いたろう。相手が悪かったな。多勢に無勢だ。なぐられて突き出されて、器量が悪かった」


 図星を射られた顔で、長助は唇を噛んだ。


「だが、ああいう連中は馴れてる。唯なぐって放り出すだけじゃねえ。仲裁する奴が出て来て、兄い、まあ我慢してくれってな。へそくりの一朱銀でも握らせたか」


 長助は、ようやく小さく頷いた。


「もう隠すことはねえ。おめえは一体、何を言って因縁を付けに行った」


 長助は、声を落として白状した。あの変死がかえって評判になって小屋が大入りだと聞き、仲間に焚き付けられて腹を立て、強い口を利きに行った。ところが向こうは商売の荒くれで、こちらは所詮ひとりの職人だ。なぐられて、宥められて、金を握らされ、引っ込んだ――筋はそれだけである。


「そりゃあ強請(ゆすり)みてえなもんだ」


 親分がそう言うと、長助は縮み上がった。根っからの悪党ではない。怖さが先に立って、余計なことをしでかしただけである。


「まあいい。丁度もう(ひる)だ。飯でも食いながら話そうじゃねえか」


 親分は長助を大橋ぎわの小料理屋へ連れ込んだ。川を見晴らす中二階で、鯉こくを取らせた。味噌の香が湯気にのって鼻をくすぐり、鯉の身は骨に気をつけてほろりと崩れる。ついでに(なまず)の煮つけも置かせると、脂の甘みが舌へ残り、酒を頼まぬ者でも喉がほどける。長助は、飯と汁に押されるようにして、いままでの経緯をすっかり吐いた。


 親分は箸を置き、盃の代わりに茶をすすってから言った。


「きょうのことは当分、誰にも言うな。浅草の連中に銭を握らされたなんて、口にすりゃ、おめえの身が軽くなるだけだ」


 長助は深く頭を下げた。


 親分は、その足でさらに浅草へ回ろうかとも思ったが、まず松吉と善八の戻りを待つことにして神田へ帰った。秋口とはいえ八月の日はまだ長い。途中で用達を二軒ほど済ませ、家で夕飯を掻き込み、近所の湯へ行った。湯の熱に肩を沈めると、浅草の薄暗い路や、茗荷畑の湿った匂いが、湯気の向こうでひとつに溶けていった。


 戻ってみると、その留守に善八が来ていた。


「どうだ。判ったか」


大方(おおかた)わかりやした」


 善八は心得顔で言った。駿河屋の女隠居には男がある。近所の駕籠屋の若い者から聞き出したという。


「葺屋町の裏に住んでる音造って奴で、小博奕を打って、ごろついてるけちな野郎です」


 親分は、すぐに首をかしげた。


「違うだろう」


「違いやすかえ」


「いや、違うとも限らねえが……」


 親分は言い切らず、湯あがりの手拭で首筋を拭いた。善八の続きでは、音造は杉の森新道の隠居所へは出入りせず、深川八幡前にある叔母の荒物屋の二階を出逢い所にしている。音造は二十七、八、いやにぎすぎすした気障な男だという。相手が駿河屋の女隠居とあまりに釣り合わぬのが、かえって本当らしい――善八はそう笑った。


 親分は笑わなかった。駿河屋の隠居、若主人、幽霊小屋の左の路。点がいくつも散っている。そのうち、どれか一つが嘘をつけば、残りが形を変える。三河町の親分は、まだ手を出す前に、腹の中で何度も組み直しているのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ