第三章:掃部宿の茗荷畑
観世物小屋の一件は寺社方の支配内である。町方が手を出すには筋を通さねばならぬ。三河町の親分は翌朝、八丁堀の同心屋敷へ出向いて、浅草で起こった変死の次第と、自分の腹にある見込みを手短に申し立て、寺社方への通達の口を頼んで帰った。寺社方には捕り手がない。承諾さえ取れれば、町方の人足が動いても差し支えはないのである。
その足で親分は、北千住の掃部宿へ向かった。きょうは朝から曇って、ここ二、三日のうちでも取り分け涼しい。八月といっても旧暦であるから、風の肌触りはもう秋の口を覗かせる。千住の宿を抜けて長い大橋を渡ると、荒川の水が冷やかに流れていた。水面は鈍い鉛色で、橋の欄干に寄ると、川風が汗をすっと引いてゆく。
掃部宿の丸屋という質屋を訪ねると、すぐに場所が知れた。質屋といっても半分は農家で、家並みの奥には畑がひろがり、裏手には家作の普請が二軒かかっていた。大工や左官が出入りし、槌の音が曇り空へ乾いて響く。
「もし、長さんは来てますかえ」
親分が大工の小僧に訊くと、小僧はあたりを見回して、一人の若い男を指さした。二十三、四の職人であるが、しるし半纒も着ず、浴衣一枚で猫柳の下に突っ立って、ほかの者の仕事をぼんやり眺めている。よく見ると右手を白布で巻き、頬にも掠り疵が二、三つあった。喧嘩のあとのように見えるが、職人の喧嘩にしては顔つきが冴えない。
「おめえさんは大工の長さんだね」
「へえ、そうで」
長助は答えたが、その目が落ち着かず、親分の顔を恐れるように見上げた。松吉の身分も、親分の名も、職人仲間なら大抵は耳に入っている。
「おととい、内の松吉が、おめえに逢って浅草の話を聴いたそうだがな……」
長助の顔色がさっと変わった。親分は、それを見落とさずに、七、八間ほど離れた茗荷畑のそばへ誘い出した。畑の土は湿り気を残し、踏めば草いきれが立つ。
「きょうは仕事を休んでるのか」
「へえ……」
「怪我してるな。友達と喧嘩でもしたかえ」
「へえ、詰まらねえことで……」
喧嘩なら、こんな怯え方はしない。親分は、そこで腹が決まった。
大工の若い衆であれば、喧嘩傷は、見せびらかすように笑って誇る。しかも多勢に無勢だ。気風の良さ、鯔背さ、意気……なんによせ、しつこいくらいに、自慢をし、相手は5人だ、いや10人は居たと、話が大きくなるのがこういう若者の道理というものだ。
だが長助のそれは、隠したい疵の顔をしていた。殴られたのではない。殴られて“黙らされた”顔である。
「おい、長助。おめえ、友達と喧嘩したんじゃあるめえ。きのうも仕事を休んだな」
長助は唖のように黙った。親分は畳みかける。
「きのう休んで、浅草へ行ったろう。幽霊の小屋へ行って、何かごた付いたろう。相手が悪かったな。多勢に無勢だ。なぐられて突き出されて、器量が悪かった」
図星を射られた顔で、長助は唇を噛んだ。
「だが、ああいう連中は馴れてる。唯なぐって放り出すだけじゃねえ。仲裁する奴が出て来て、兄い、まあ我慢してくれってな。へそくりの一朱銀でも握らせたか」
長助は、ようやく小さく頷いた。
「もう隠すことはねえ。おめえは一体、何を言って因縁を付けに行った」
長助は、声を落として白状した。あの変死がかえって評判になって小屋が大入りだと聞き、仲間に焚き付けられて腹を立て、強い口を利きに行った。ところが向こうは商売の荒くれで、こちらは所詮ひとりの職人だ。なぐられて、宥められて、金を握らされ、引っ込んだ――筋はそれだけである。
「そりゃあ強請みてえなもんだ」
親分がそう言うと、長助は縮み上がった。根っからの悪党ではない。怖さが先に立って、余計なことをしでかしただけである。
「まあいい。丁度もう午だ。飯でも食いながら話そうじゃねえか」
親分は長助を大橋ぎわの小料理屋へ連れ込んだ。川を見晴らす中二階で、鯉こくを取らせた。味噌の香が湯気にのって鼻をくすぐり、鯉の身は骨に気をつけてほろりと崩れる。ついでに鯰の煮つけも置かせると、脂の甘みが舌へ残り、酒を頼まぬ者でも喉がほどける。長助は、飯と汁に押されるようにして、いままでの経緯をすっかり吐いた。
親分は箸を置き、盃の代わりに茶をすすってから言った。
「きょうのことは当分、誰にも言うな。浅草の連中に銭を握らされたなんて、口にすりゃ、おめえの身が軽くなるだけだ」
長助は深く頭を下げた。
親分は、その足でさらに浅草へ回ろうかとも思ったが、まず松吉と善八の戻りを待つことにして神田へ帰った。秋口とはいえ八月の日はまだ長い。途中で用達を二軒ほど済ませ、家で夕飯を掻き込み、近所の湯へ行った。湯の熱に肩を沈めると、浅草の薄暗い路や、茗荷畑の湿った匂いが、湯気の向こうでひとつに溶けていった。
戻ってみると、その留守に善八が来ていた。
「どうだ。判ったか」
「大方わかりやした」
善八は心得顔で言った。駿河屋の女隠居には男がある。近所の駕籠屋の若い者から聞き出したという。
「葺屋町の裏に住んでる音造って奴で、小博奕を打って、ごろついてるけちな野郎です」
親分は、すぐに首をかしげた。
「違うだろう」
「違いやすかえ」
「いや、違うとも限らねえが……」
親分は言い切らず、湯あがりの手拭で首筋を拭いた。善八の続きでは、音造は杉の森新道の隠居所へは出入りせず、深川八幡前にある叔母の荒物屋の二階を出逢い所にしている。音造は二十七、八、いやにぎすぎすした気障な男だという。相手が駿河屋の女隠居とあまりに釣り合わぬのが、かえって本当らしい――善八はそう笑った。
親分は笑わなかった。駿河屋の隠居、若主人、幽霊小屋の左の路。点がいくつも散っている。そのうち、どれか一つが嘘をつけば、残りが形を変える。三河町の親分は、まだ手を出す前に、腹の中で何度も組み直しているのであった。




