第二章:照降町の駿河屋
長助に踏まれた時分には、女はまだ息があったらしい。表へ運び出して近所の医者を呼びに行き、戻って来た頃には、もう胸も腹も動かなかった。夕方の浅草は人の波が絶えず、見物のざわめきが一段高くなる刻である。死人が出たとなれば、好奇心は恐怖に勝って、かえって人垣が厚くなる。
医者は女の口許を覗き、胸へ手を当て、頸の脈を探ったが、死に方に怪しい疵は見えない。毒をあおった形跡もない。こういう場合、医者の言葉も歯切れが悪くなる。結局は「驚きの余り、心の臓を破ったのであろう」という、もっともらしい見立てで片づいた。検視の役人も出張ったが、女の肌に外傷はなく、衣服も乱れていない。
ただ、髪だけは――女の髪というものは、乱れぬように結ってあっても量が多い。役人が指先で軽くかき分けたくらいでは、地肌まで覗けぬ。そういうところが、昔の検視の粗さでもあった。
そして、表向きは、幽霊におびえた頓死として処理される。
観世物小屋というものは、ほかの見世物と違って、どやどや押し込まれては凄味が薄い。木戸口で人数を量り、ほどほどに区切って入れるのが商売の肝であった。女は長助より先に木戸を通っている。女の後から若い男が一人、さらに男と女の二人連れが入った。その三人はいずれも右の路を取って無事に出た。次が長助である。つまり、女は自分で左の路を選び、赤子を抱いた幽霊のあたりまで進んだことになる。
事件が浅草寺内で起こった以上、寺社方の筋である。町方が口を出すには段取りが要る。しかも他殺の形跡がないとなれば、詮議の手も早く引く。幽霊を見て死んだ――そう聞けば、役人にしても「夏の浅草らしい話」で済ませたくなるのが人情であった。
だが、死んだ女の身許は、意外なほど早く割れた。
その日、照降町の下駄屋・駿河屋の若主人、信次郎も商い用で浅草の花川戸まで出向いていた。帰り道で、仁王門そばの幽霊小屋で女が死んだという噂を聞いたが、まさか自分の義母のこととは思わない。ところが日が暮れて、杉の森新道の隠居所から女中が駆け込んで来た。「御隠居さんがまだお帰りになりません」と言う。朝から観音詣でに出たきり、夜に入っても帰らぬのはたしかに妙である。店から若い者が一人、小僧を連れて、あてもなく浅草方面へ探しに出た。
そのあとで、信次郎がふと、噂を思い出した。あの死人は――もしや。番頭を出し、もう一人を添えさせて観世物小屋へ走らせると、噂は当たった。死骸は義母のお半であった。駿河屋は早々に引き取り、三日ほどして立派な葬式とむらいを営んだ。下駄屋の葬式は、鼻緒の白さほどに見栄が立つ。世間の目に晒される商売だけに、なおさら体裁を整えるのである。
その年の夏は、残暑が軽かった。八月に入ると朝夕に涼風が吹き、井戸端の水が冷たく感じられる朝もある。八日の朝、三河町の親分・半七の家へ子分の松吉が顔を出した。
「親分、なにか変わったことはありませんかね」
「ここのところは不漁だな」
半七は笑って、煙草盆へ手を伸ばした。江戸の御用聞き稼業は、事件がなければ飯が食えぬというものでもないが、続けざまに厄介へ首を突っ込めば、こちらの身が擦り切れる。先月の淀橋の一件――水車小屋が吹き飛んだ騒ぎが、まだ尾を引いていた。
「ちっとは骨休めもいいだろう。幸次郎はどんな塩梅だ」
「おかげで怪我の方は日ましにいいようで。もうちっと涼しくなったら起きられましょう。――実はきのう、千住の掃部宿の質屋へ用があって出かけたんで」
松吉はそこで、下谷通新町の大工・長助に出会ったと言った。質屋の家作を手入れするために入っていたらしい。話の端から、例の浅草の幽霊小屋で、駿河屋の女隠居が死んだ場へ居合わせたのが長助だと判り、本人の口から聞き出したという。
「長助はまだ若え野郎で、口じゃ強そうなことを言ってましたが、内心はぶるぶるもので、まかり間違えば気絶するお仲間だったのかも知れません」
松吉がそう言って笑うと、半七は煙草の火を灰へ落として、静かに頷いた。
「むむ。そんな話、あっしも聞いた。で、観世物の方はお差し止めか」
「いいえ、相変わらず木戸を開けています。まあ、なんとか宜しく頼んだんでしょう。ところが世の中は不思議で、幽霊におどろいて死んだ者があったなんて言やあ、客足が止まるかと思いのほか、かえって評判になって毎日大繁昌。なにが仕合わせになるか判りませんね」
「そこで、長助って奴はどんな話をした」
松吉は、血だらけの手だの、姙はらみ女だの、蝙蝠だの、猿の化け物だの、柳の下の赤子抱きの幽霊だの、あらましを語った。途中で長助が女にむしり付かれて逃げ帰り、木戸番と戻って見れば本物の死人が転がっていた――そういう筋である。
聞き終えると、半七はしばらく黙った。表情は温いが、腹の中で何かが動いている時の沈黙であった。
「その女隠居は、どんな女か知らねえが、観音詣でに出かけたんじゃあ、いくらも金を持っちゃいねえはずだ」
「そうでしょうね。女ひとりで参詣に出たんじゃあ、巾着銭もたかが知れてます」
「女ひとりって言やあ、その隠居が、女のくせに、たった一人で左の方へ行ったのはどういう訳だ。まさか景物が欲しかったわけでもあるめえ」
松吉は「右と左を間違えたんだろう」という巷の噂を言ってみせたが、半七は、そう云ってしまえばそれまでだ、と呟くように受け流した。だが、目は納得していない。
「松、無駄骨かも知れねえが、まず取りあえず駿河屋を洗って来い」
松吉は、親分の命を一々うけたまわって出て行った。昼を過ぎ、夕暮れの灯が町家の瓦にのる頃、戻って来た。汗を拭いながら、座に膝を入れる。
「親分、すっかり洗って来ました」
「早速だ。その女隠居は幾つで、どんな女だ」
「名はお半。四十五です。八年前に亭主に死に別れて、三年前から杉の森新道に隠居。女中のお嶋と二人暮らしで、店から相当の仕送りがあるんで、なかなか贅沢に暮らしていたようです。四十を越してもまだ水々しい大柄の女で、ふだんから小綺麗にしていたと云います」
「駿河屋の養子は」
「信次郎。ことし二十一。先代主人の妹のせがれで、甥にあたるわけです。十一の年に養子に入って、十三のときに先代が死んだ。年が行かねえから、当分は義母のお半が後見。信次郎が十八の秋に店を譲った。店には吉兵衛って番頭がいて、こいつが半分は後見みてえに商いを見てます。若主人は色白のおとなしい男で、近所の若え女なんぞには評判がいいそうで」
「信次郎は独り身か」
「男はよし、身上はよし、年頃で――縁談の話は二、三度あったそうですが、いつも中途で毀れて、いまだに独り身です。道楽の噂も、いまのところは聞こえません」
半七は「ふう」と小さく息を吐いた。店を譲って隠居するには、お半は少し若すぎる。松吉が話を続ける。
「ただね、親分。女中のお嶋ってのが三月の出代りから来た新参で、内外のことをあんまり知らねえ。それでも話をだまして聞き出すと、隠居のお半は毎月かならず先代の墓参りに出る。浅草の観音にも行く。深川の八幡へも参る。信心なら仕方ねえが、そのほかにも親類へ行くとか何とか言って、ずいぶん出歩くことがあるそうです。後家さんがあんまり出歩くのは、どうもよくねえ。こっちには綾があるかも知れません」
「そうだろうな」
半七は頷いた。店にいては自由が利かない。隠居を口実に別居し、好きに出歩く。そういう女は、世間のどこにもいる。だが、駿河屋の女隠居となれば、話が違う。体裁がまずいほど、隠したい事情がある。
「もう一度訊くが、お半が木戸をはいって、そのあとから若い男がはいった。それから男と女の二人連れがはいって、その次に長助――そういう順だな」
「そうです」
「お半のあと先へはいった奴らを、みんな洗え。年頃も人相も風俗も、なるたけ詳しい方がいい」
松吉は、木戸番を嚇かせば喋ると請け合って、また出て行く支度をした。
入れ違いに、善八が来た。こいつは松吉とは違う調子で、どこか抜け目がない。半七は顔を上げると、軽く顎をしゃくった。
「いいところへ来た。おめえにも用がある」
善八は松吉に途中で会ったらしく、浅草のお化けへ出かけると聞いたと言った。
「そうだ。お化けの方は松に頼んだ。おめえは照降町へ回れ」
半七は短く方針を授けた。駿河屋の内輪――店の者の口は固い。近所の口は、案外に軽い。奉公人の噂、出入りの駕籠屋、裏長屋の物知り。そういうところから綾はほどける。善八は心得顔で頷くと、怱々に出て行った。
夏の名残の光が、まだ障子の外に残っていた。半七は煙草に火をつけ、薄く吐いた煙の向こうで、ひとり静かに考え込んでいた。幽霊の小屋で死人が出る――その筋だけなら、江戸の夏の風物で済む。しかし、駿河屋の女隠居が、女ひとりで左へ行く。信次郎が噂を思い出すのが早すぎる。そこに、匂いがある。三河町の親分は、その匂いを、もう手の内へ入れかけていた。




