第三章:黒い獣毛
酒屋の店先には、大きな酒樽が積まれ、麹の甘酸っぱい匂いが漂っている。帳場にいた亭主は、庄太の顔を見て丁寧に挨拶した。
しかし、お伝が殺された夜のことは、やはり薄暗がりの不意の出来事で、詳しい話は聞けない。お伝が二年越しの生真目な奉公人であったことだけは確かだった。
山の宿の小間物屋も同様で、誰も知らぬ間の犯行とあっては、手がかりは皆無に等しい。
「親分、こりゃあお手上げですぜ」
小間物屋を出たところで、庄太は汗を拭いながら音を上げた。
「まあ、あせるな。眼鼻は付いてきた。これからおめえの隣りへ行こう」
庄太の住む露路は、日中でも薄暗く、じっとりと湿っていた。お作の家には、近所の女たちが集まり、葬儀の準備に忙しない。
庄太の女房も手伝いに出ていたが、半七の姿を見て、慌てて戻ってきた。
「とむらいは、今日の夕方だそうで」
半七は、庄太に案内させ、露路の奥を検めた。
問題の竹垣は、大人の男がくぐるには難儀そうだが、不可能ではない。
その脇には、共同の掃溜がある。生ゴミや汚物の腐った、むっとするような臭気が鼻をついた。
半七は、犬のように地面を嗅ぎまわり、竹垣のあたりを丹念に調べていた。
やがて、何かを見つけたように、竹垣の崩れた箇所に手を伸ばした。
庄太の家に戻ると、半七は隣家のお作の母、お伊勢を呼んでもらった。
五十に近い大柄な女で、目を泣き腫らしている。
半七は一通り悔やみを述べ、昨夜の様子をあらためて訊いた。
「その女の人相は、ちっとも判らなかったかえ」
お伊勢も、白地の浴衣と手拭い、そして若い女であったことまでは認めた。
「その女は、跣足だったかえ」
「はい……。そう言われれば、どうもそうらしゅうございました」
お伊勢は、はっとしたように答えた。
「どうぞ、娘のかたきを……」
泣き崩れるお伊勢を、半七は静かに帰した。
時刻は、もう午に近い。
「庄太、腹が減ったな。近所に何か食える店は?」
「へい。でしたら、角の小料理屋『丸屋』が。昼間からやってるんで」
「丸屋」は、四、五人も入れば一杯になるような小さな店だった。昼日中だというのに、すでに日雇い風の男が二人、濁り酒をちびちびやっている。
「暑いな、庄太。こんな日は、冷やでも一杯やらねえと、やってられねえ」
「へい。ここのイワシの酢の物が、なかなかいけやす」
二人は奥の小上がりに陣取り、冷酒と、イワシの酢の物、それに冷奴を注文した。
酢で締めたイワシの、ひんやりとした酸味が、暑さで火照った体に染みわたる。
「どうですえ、親分。お調べは、こんなもんですか」
庄太が酌をしながら尋ねた。
「いや……」半七は酒を一息に呷ると、声を潜めた。
「おれの考えじゃあ、この一件、二つの筋が一つにこぐらかっているらしい」
「と、申しますと?」
「まず、人を啖い殺すやつは、獣だ」
「へえ」
「人を啖うばかりじゃねえ。そこらで鶏がたびたび居なくなるという。鬼娘が人間も鳥も構わず生血を吸う、というなら話は別だが、どうもそうは思えねえ。……ちょいと、これをみろ」
半七が袂から取り出したのは、一枚の鼻紙だった。
庄太が恐る恐る開くと、中には、黒くごわごわした獣毛が五、六本、うず巻くように入っていた。
「こいつを、さっきの竹垣で見つけた」
「こりゃあ……犬、ですかね」
「犬か、猫か。だが、垣根の近所には、妙な四足の跡が残っていた。おれには、ちっと思い当たることがある」
半七は庄太の耳に口を寄せた。庄太の目が、驚きに見開かれた。
「なるほど……。ですが、親分。そいつは獣がやったとして、あの『鬼娘』の方は、いったい何です? やっぱり、気ちがいでしょうか」
「気ちがい、かなあ」
半七は、意地悪く笑った。
「だって、手拭いかぶって、浴衣一枚、跣足でうろつくなんざ、正気の所作じゃありやせんぜ」
「それもそうだが、まあ聴け」
半七が再びささやくと、庄太の顔が、今度は感嘆に変わった。
「なるほど! いや、どうも恐れ入りました。きっと、それだ! それに違いねえ!」
「そこで、だ。それについて、何か心あたりはねえかな」
庄太は腕を組み、しばらく唸っていたが、やがて、ぽんと手を打った。
「ありやす! 親分、おあつらえ向きの奴がおりまさあ!」
今度は庄太がささやく番だった。半七は、満足そうに頷いた。
「よし。もう考えることはねえ。それだ、それだ」
二人は手筈を決め、一旦別れた。
半七が、小梅に住む知人の元で用事を済ませ、夕七ツ(午後四時)過ぎに庄太の家に戻ると、露路はにわかに騒がしくなっていた。
隣家の葬儀の時刻が近づいたのだ。
お作は、生前の評判こそ良くなかったが、その無惨な死に様が人々の同情を引いたとみえ、見送り人は案外に多い。
庄太の女房も子供を連れて会葬に出ていった。
「お、親分。待ってやした」
庄太が、興奮した様子で半七を迎えた。
「どうやら、親分の鑑定通りで。大抵のことは判りやした。まったく、親分の眼は高けえや」
「よし。じゃあ、約束通りにするか」
「へえ。確かな証拠を握らねえと、あとが面倒ですから」
「まったくだ。……だが、まだ早い。隣りの門送りでも済ませてから、ゆっくり出掛けるとしよう」
「へえ。暗くなるには間がありやす。腹ごしらえでもしやしょう」
「うむ。戦の前だからな。鰻でも取るか」
「それがよござんす」
近所の鰻屋から、蒲焼が届けられた。
文久元年の夏、江戸の鰻は、まだ天然ものが当たり前であった。ほどよく脂の乗った身を、一度白焼きにしてから蒸し、さらに秘伝のタレをつけては焼く。香ばしい匂いが、狭い長屋に充満した。
なお、鰻の養殖が始まったのは明治の初め頃、徐々に普及しだしたのが明治の半ばから終わりであった。
また、昭和の終わりごろまで、郊外のそこらへんの川で普通に鰻が取れており、夏休みに仕掛けをかけて、その日の晩ご飯にしてもらっていたりしたのは……一定の年齢以上の人にとっては懐かしい思い出だ。
二人が早い夕飯を済ませる頃、日はとっぷりと暮れていた。
隣家の葬列が、念仏とともに露路を出ていくと、あたりは急に静けさを取り戻した。
「じゃあ、親分。あっしはちと先に行ってやす」
庄太が忙しなく出ていくと、半七は一人、残された。
途端に、羽音が耳についた。
「ちっ。庄太の奴め、蚊いぶしを忘れていきやがった」
半七が台所で土焼の豚を探し出し、支度をしていると、表で声がした。
このころの土焼の豚は、今のものより、ずいぶんとおちょぼ口で、徳利の底が抜けたような形をしている。いまとちがい渦巻の蚊取り線香ではなく、もぐさ、おがくず、枯れ葉などを焚いて蚊を追い払っていた。
東南アジアの山岳地帯の農民が、いまだに蚊よけ(=マラリアよけ)を兼ねて煙草を吸いながら農作業をするのはよく知られているが、殺虫成分はなくとも、枯れ葉をいぶすだけでも蚊をよける効果はあったようである。
「庄太さん。内ですかえ」
「あいよ」
半七が出ると、体格のいい男が立っていた。
「おまえさん、庄太に頼まれて来たな。わっしは半七だ」
「へい、親分さんで。庄太さんから話は伺っておりやす」
「御苦労。ちと手を貸して貰うぜ」
半七は男にも手筈をささやくと、男はにやりと笑った。
「大丈夫かね」
「まあ、うまくやりやしょう」
「よし。こんな所で藪蚊に責められてるも知恵がねえ。そろそろ出掛けるか」
二人が向かったのは、善竜院という寺の角であった。
このあたりは寺町で、古い練塀や生垣が続き、木々が鬱蒼と茂っている。宵闇のなか、大溝からは、もう秋を思わす蛙の声が聞こえていた。
半七は頬かむりをして門前に立ち、連れの男は塀の横手に身を潜めた。
吉原通いらしい男の鼻唄が遠ざかり、半刻ほども待ったろうか。
北の方角から、足音が聞こえた。
それは、素足で土を踏むような、ひそやかな響きであった。
だが、半七の耳は、それだけではない音を捉えていた。人の足音に混じり、四つ這いの獣が、息を潜めて従う気配だ。
星明かりを頼りに、闇の奥に白い影が浮かび上がるのを待って、半七は声をかけた。
「もし、姐さん」
人影は、ぴたりと足を止めた。
暗闇の底から、獣が低く唸る声が聞こえる。
半七は、咳払い一つで合図を送った。
塀の横手から、連れの男が太い棒を手に飛び出す。
「ぐるるるっ!」
闇を裂いて、獣の猛る声が響いた。
同時に、庄太が草履の音を立てて駆けつけてくる。
「石橋山で、ちっとも判らねえ! どうした!」
半七は、逃れようとする白い浴衣の女を、寺の門前に力任せに捻じ伏せていた。
この「石橋山」というのは、源平合戦における源氏旗揚げの緒戦、あの石橋山の戦いを指す。大庭景親ら平氏方の大軍に対し、頼朝方はさんざんに打ち破られたが、このとき演じられた真田与一と俣野五郎の泥まみれの組討は、江戸っ子好みの勇壮な場面として浮世絵の画題にもなり、芝居にもかかった。
そこから転じて、江戸市中では、敵味方が入り乱れて何が何やら判然とせぬ大混戦や、取っ組み合いの修羅場を指す言葉ともなっていたのである。
暗闇の中、人と獣とが入り乱れる今の状況は、まさに「石橋山」そのものであった。
やがて、獣の悲鳴が上がり、寺町の闇は、再び静寂に包まれた。
「大丈夫です!勝ちやした!」 庄太の、弾んだ声がした。




