第一章:馬道の異変
文久元年七月二十日。立秋も過ぎたころ。
この年の江戸は、空梅雨のあと、猛烈な残暑に見舞われていた。風は凪ぎ、陽が高く昇れば、土埃の道はまるで焙烙のように熱くなった。
神田三河町の半七の家では、裏庭の朝顔が盛りを過ぎようとしていた。蔓ばかりが伸びて、花の勢いが衰えている。
「いけねえな。ちいと水をやり過ぎたか」
半七が縁側で鉢植えを眺めていると、表口を荒々しく叩く音がした。
「おや、朝っぱらから騒々しい」
女房のお仙が対応に出る間もなく、戸ががらりと開く。
「親分! お早うござんす!」
息を切らして飛び込んできたのは、子分の庄太であった。馬道に住まいを持つ、小柄だが気の利く男だ。
「やあ、庄太か。えらく早いな、めずらしいぜ」
「なに、この頃はいつも早いのでさぁ」
「そうでもあるめえ。朝顔の盛りは御存じねえ方だろう」
半七が軽口を叩いても、庄太の顔はこわばったままだ。
「時に親分。すこし耳を貸して貰いてえことがあるんですよ。わっしの近所が、どうも物騒で、少しばっかり逸ってるんで」
「なにが流行るだ、麻疹でもあるめえ」
江戸の庶民はことのほか、言葉遊びが好きだ。
習い性になっているといってもよい。
こんな場面であっても、口をついて出てしまう。
半七は、ただ事ではないと察し、庄太を茶の間へ招じ入れた。お仙が、冷や飯に熱い蜆の味噌汁、それにありあわせの胡瓜の糠漬けといった簡単な朝餉を運んでくる。
「さ、まあ落ち着け。飯は食ったか?」
「へい。ですが、それどころじゃ……。実は親分。わっしの隣りの家のお作という娘が、ゆうべ死んでね」
「ほう。どんな娘で、いくつになる」
「十九か二十歳でしょうよ。まあ、ちょいと渋皮の剥けたほうでね」
庄太は糠漬けをかじるのも忘れ、声を潜めた。
「そいつが、殺られたんですよ」
「……殺られた、か」
半七の目が光る。
「へえ。それも、ただ殺されたんじゃねえ。……啖い殺されたんでさあ」
「なんだと? 化け猫にか」
半七は笑おうとしたが、庄太の真剣な眼差しに言葉を呑んだ。
「冗談じゃねえんで。なにしろわっしの隣りですから。こればかりは間違いなしです」
庄太の報告は、にわかには信じがたいものであった。
ことの発端は、半月ほど前。馬道の鼻緒屋の娘、十六のお捨が宵の刻限に使いに出た。すると、白地の手拭いをかぶり、白地の浴衣を着た若い女が、すれ違いざまに「もし」と声をかけた。
お捨が振り向くと、女はうす闇の中、真っ赤な口でにやりと笑ったという。得体の知れぬ恐怖にかられ、お捨は夢中で逃げ帰った。
この時はまだ、どこぞの気ちがい女だろうと、さほどの騒ぎにはならなかった。
ところが五、六日後、同じ町内の酒屋で下女のお伝が殺された。二十一になる娘だ。裏手の物置で、喉笛を無残に啖い破られていた。
騒ぎを聞きつけて人が駆けつけたが、すでに人影はなかった。
だが、この事件で人々を震え上がらせたのは、お伝が殺された時刻、あの白地の浴衣の女が酒屋の裏口を覗いていた、という目撃証言が出たことだ。
「鼻緒屋の娘は、運よく逃げた」
「酒屋の下女は、運悪く啖い殺された」
噂は尾ひれをつけ、かの有名な浅茅ヶ原の鬼婆になぞらえ、「鬼娘」の仕業だと囁かれるようになった。浅茅ヶ原は馬道からもほど近く、江戸の者にとっては身近な伝説の地である。それだけに、恐怖は現実味を帯びていた。
それでも、分別顔の連中は「高箒を鬼と見るたぐいさ」と、冷笑していた。
しかし十日も経たぬうち、その連中も口をつぐむことになる。
山の宿(今の台東区花川戸あたり)の小間物屋の女房が、裏の井戸端で、これまた同じ手口で啖い殺されたのだ。
これで三人目。さすがに鬼娘の噂は、残暑の江戸を恐怖に陥れた。
そして、ゆうべ。第四の犠牲者が出た。
庄太の隣家のお作だ。
庄太の住まいは露路の奥で、小綺麗な長屋が五軒並んでいる。庄太は四軒目、お作は一番奥の五軒目で、母のお伊勢と二人暮らしだ。その奥は掃溜のある空き地で、古い桜の大木が立っている。
お作は浅草奥山(浅草寺本堂の北西一帯)の茶店に出ているが、内々で旦那持ちだともっぱらの噂で、暮らし向きは良かった。
なお、者の人に言わせると奥山といえば、芝居小屋がかかったりする歓楽街・行楽地を差す言葉のようなもので、厳密にいえば地名ではないそうだ。
昨夜の六ツ半(午後七時)過ぎ。
お作が店から戻り、台所で汗を流すため行水を使っていた。母のお伊勢は、奥の縁側で蚊いぶしを焚いていた。
すると、台所でお作が誰何する声が聞こえた。
「誰、そこから覗くのは誰!」
近所の若い衆の悪戯か。お伊勢がそう思った矢先、うす闇の台所に、ぼんやりと白い人影が浮かんだ。白地の手拭、白地の浴衣。
「なにを覗いているのよ、おまえさんは……」
お作の声が終わらぬうちに、甲高い悲鳴が上がった。
お伊勢が駆けつけると、赤裸のお作が、盥から転げ落ちて倒れている。
慌てて行燈を持ち出すと、行水の湯が真っ赤に染まっていた。娘の喉笛から血が溢れていたのだ。
お伊勢は腰を抜かし、表通りまで響くような声で人を呼んだ。
町内の医者が来たが、手遅れであった。
あの白い浴衣の女は、騒ぎの間に掻き消すように姿を消していた。
「その時におめえは家にいたのか」
半七は、冷めかかった味噌汁をすすりながら訊いた。
「それが、親分。わっしは表の足袋屋で将棋をさしておりやして。騒ぎで駆け戻った時には、もう長屋の連中がわあわあ騒いでるだけで……」
「あの露路は抜け裏か」
「以前は通り抜けられやしたが、無用心だというんで、奥に垣根を結ってありやす。もっとも、そんなにしっかりしたもんじゃねぇ竹垣ですから、子供が悪さをして、通り抜けようと思えばできまさあ」
「ふむ。……検視も入ったろうが、手がかりはなしか」
「さっぱりだそうで。田町の重兵衛の旦那は、色恋沙汰の遺恨だと見てるようですがね。お作はああいう女ですから。ですが、刃物ならともかく、啖い殺すってのが、どうも……」
「喉笛へ啖らい付くとはよくいうことだが、なかなか出来る芸じゃあねえ」
半七は腕組みをした。
「本当に啖い殺したのか。鉄砲疵には似たれども、まさしく刀でえぐった疵……なんぞという芝居の文句もある。どうも腑に落ちねえな」
「わっしも死骸を見やしたが、確かに獣にでもやられたような……」
「よし」
半七は、残りの飯をかき込むと、団扇を手にすっくと立ち上がった。
「どうにも合点がいかねえ。一度、現場を見てみよう。重兵衛の旦那の縄張りだが、おめえの隣家だ。義理もあろう。わっしが手伝って、おめえの顔を立ててやるか」
「ありがてえ! 何分おねげえしやす!」
庄太が勇み立つと、お仙が後ろから声をかけた。
「庄さん、どちらへ」
「親分を引っ張り出して浅草へ。方角が悪いが、朝っぱらだから大丈夫ですよ」
お仙は、あきれたように笑った。
浅草といえば、このころは歓楽街……いや悪所に近いだろうか。遊び場という目線で言えば、金持ちや風流人にとっての浅草が吉原(公娼)なら、庶民にとっての浅草は岡場所(私娼)である。
「朝っぱらからでも、おまえさんじゃあ油断が出来ないよ。この前、おかみさんが来て愚痴をこぼしていたからね」
「へへ……」
半七の女房に釘を刺され、庄太はバツが悪そうに頭をかいていた。




