第三章:御戸帳の謎
あれほど江戸の空を白く染めた蝶の群れも、その日の暮れ六ツ(午後六時)が鳴る頃には、まるで引き潮のように姿を消した。
水面に落ちた蝶の骸むくろが、竪川の水面を白く覆っていたが、それも夜の間の雨で押し流されたか、翌朝には一匹として残ってはいなかった。
だが、人々の動揺は消えない。
「弁天様のお告げに嘘はありませぬ。恐ろしいことでございます」
善昌は、憔悴しょうすいした風情で信者たちに説いた。
「これは、来るべき大いなる災いの『前兆』に違いありませぬ。このままでは江戸の町がどうなるか……」
もはや、善昌の言葉を疑う者はいない。
信者たちは善昌と相談の上、来る七月の朔日ついたちから、盂蘭盆の十五日まで、半月の間、弁天堂にて大護摩を焚き、厄除けの祈祷を続けることを決めた。
護摩料、灯明料はもとより、米、酒、反物など、諸方からの奉納物が弁天堂の狭い境内に山と積まれた。
こうして、はじめの七日は無事に過ぎた。
七夕たなばた祭りの喧騒も過ぎた、八日の朝のことである。
善昌は、なんの前触れもなく、仏前の御戸帳みとちょうをぴしゃりと下ろしてしまった。
今までは誰であろうと拝むことができた、あの光明弁天の尊像を、紫の帳とばりの奥深く、隠してしまったのである。
「これも、夢枕に立たれた弁天様のお告げでございます」
詰め寄る信者たちに、善昌はそう説明した。
「『今後、百日の間は、我が姿を人に見せるな。その間に、わざわいの日は過ぎ去るであろう』……とのお言葉でございました」
祈祷は御戸帳を下ろしたまま続けられた。
だが、それから三日、四日と経つうちに、人々の間に、あの蝶合戦の時とはまた違う、不穏な囁きが生まれ始めた。
「……おい、聞いたか。あの御戸帳の中は、空からっぽだそうだ」
信者の中でも、特に金回りの良い「講親」と呼ばれる立場の三、四人が、この噂を気に病んだ。
「善昌様。我々の疑いを晴らすため、どうか、一目でも……」
そう詰め寄ったが、善昌は頑として首を縦に振らない。
「愚か者め!」
彼女は、いつになく厳しい口調で言った。
「そなた達のうち、浅草観世音の御本体を、その目で見た者がいるか。それでも人々は渇仰し、参拝するではないか。お告げに背き、みだりに奥を覗けば、仏罰が当たり、眼が潰れるか、気が狂うか。……どちらが恐ろしいか、お分かりであろう」
こう言われては、返す言葉がない。
江戸っ子にとって、浅草の観音様は絶対である。その観音様ですら、誰もその「御本体」を見たことはないのだ。
人々は黙るしかなかった。
とはいえ、疑いの火種は消えない。
弁天堂は、どこかぎくしゃくとした空気をはらんだまま、いよいよ盂蘭盆の十五日、満願の日を迎えた。
祈祷は、その日限りで滞りなく終わりを告げた。
莫大な寄進と、人々の疑念を残して。




