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第二章:松坂町の光明弁天

本所・松坂町。


 この界隈に詳しい者ならば、かの有名な吉良上野介よしこうづけのすけの屋敷があった場所、と聞けばすぐに分かるだろう。赤穂浪士の討ち入りという、江戸の歴史に残る大事件の舞台である。


 万延の御代ともなれば、広大だった屋敷もその面影はなく、今はおおかたが町屋となり、細い露路ろじが入り組む、ごくありふれた庶民の町となっていた。


 その露路の奥に、善昌が住まう「光明弁天堂」はあった。


 善昌は、以前は小鶴こつると名乗り、三味線を抱えて門口に立つ、いわゆる托鉢たくはつの比丘尼びくにであった。それが六、七年前、この弁天堂を開いたのである。


 本所界隈は、もともと「いわやの弁天」や「わらづと弁天」など、弁天信仰の盛んな土地柄であった。善昌が祀る「光明弁天」の由来というのが、また、いかにもといった風情であった。


 善昌自身の語るところによれば、こうだ。


 ある夜更け、下谷したや御成道おなりみち(現在の昭和通りあたり)を通っていると、一軒の古道具屋の雨戸の隙間から、ただならぬ光が漏れている。  不思議に思って覗いてみると、店の奥に飾られた木彫りの弁天像が、それはそれは眩まばゆい光を放っていた。


 信心深い小鶴は、その場で手を合わせた。するとその夜、夢枕にくだんの弁財天が立ち、「我を祀って信仰すれば、諸人の災厄をはらい、福運を授けよう」と告げたという。


 翌朝、小鶴は有り金をはたいてその尊像を買い求め、松坂町の長屋に持ち帰った。


 この話が伝わると、霊験あらたかな弁天様を一目拝もうと、人々が集まりだした。


 小鶴は名を「善昌」と改め、托鉢をやめ、弁天堂の堂守どうもりのような形でそこに収まった。参詣者の求めに応じ、祈祷や身の上判断なども行うようになった。


 彼女への信仰を決定づけたのが、二、三年前のある事件であった。


 ある日の午後、善昌が用事で留守にしていた折、近所のお国という女が参詣にやってきた。

 お国が堂に入って驚いた。

 仏前に、見知らぬ若い男が倒れ、苦しんでいる。男は口からおびただしい血を吐き、すでに虫の息であった。

 お国の上げた悲鳴に、近所の人々が駆けつける。

 男は、賽銭箱さいせんばこから盗み出した銭を握りしめ、仏具や供物の餅、菓子を指さしたまま、息絶えた。


 調べはすぐに付いた。


 男は賽銭泥棒で、仏具を盗み、あろうことか仏前の供物まで盗み食いしたらしい。  そこへ善昌が帰ってきた。


「供物に毒など入っているはずがありません」


 善昌は、人々の疑いを解くため、その場で残りの餅や菓子を口にしてみせたが、何事も起こらない。


「……罰が当たったんだ」


 人々は慄然とした。仏の供物を盗み食いしたため、たちまちその罰を受け、供物が毒に変わったのだ、と。


 この一件で、光明弁天の霊験は絶対のものとなった。

 諸方からの寄進が山のように集まり、長屋同様だった弁天堂は立派に改築された。狭い露路の奥にありながら、その赫灼かくやくたる灯明の光は、夜、往来からでも拝めるほどであったという。


 その善昌が、今年の三月、「弁財天のお告げがあった」として、信者たちにこう言い渡していた。

「今年は恐るべき厄年である。井伊大老の死などは、ほんの手始めにすぎない。五年前の大地震、四年前の大風雨(安政江戸台風)、二年前の大コロリ(コレラの大流行)、それらにも増したる大いなる災いが、必ず江戸を襲うであろう」


 そして、こう付け加えた。


「ただし、それには必ず何かの『前兆』がある。ゆめゆめ用心を怠ってはならぬ」


 大地震、大風雨、大コロリ、黒船、そして大老暗殺。

 次々と起こる災厄に怯える人々にとって、この御託宣は恐ろしい現実味を持っていた。


 その矢先に、この「蝶合戦」である。


 人々が弁天堂へ駆けつけると、善昌は青白い顔でこう言った。


「ご覧なさい。仏前の灯明が、すべて消えております。あの白い蝶が堂内にまで入り込み、火を消して回ったのです。……お告げは、真まことでありました」

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