第一章:竪川の白い雪
それは、万延元年のことである。
この年の三月には、江戸城桜田門外のお堀端で大老・井伊直弼が水戸浪士らに暗殺されるという、世に言う「桜田門外の変」があった。黒船が来て以来、どこか浮足立っていた江戸の世情は、この一件でいよいよ不穏な空気に包まれていた。
そんな年の六月の末。
本所の竪川通り界隈に、どこからともなく、おびただしい数の白い蝶が集まり始めた。
竪川というのは、隅田川から東へ、中川へと抜ける運河である。川沿いには材木問屋や米蔵が並び、荷を運ぶ高瀬舟が行き交う、江戸の物流を支える動脈の一つであった。
はじめは千か二千か。
それでも異常な数で、近所の子供らが「蝶々だ!」と、竹竿や箒ほうきを持ち出して面白半分に追い回していた。
ところが、である。
その数は日増しに増え、六月の晦日には、もはや幾万という数に達していた。
白い、白い蝶の群れが、雪のように乱れ飛ぶ。
天候は、この時期の江戸らしく、蒸し暑い曇天である。その鉛色の空を背景に、無数の白が舞う様は、美しいというよりも、どこか不気味な、一種異様な光景であった。
「蝶々合戦だ」
誰が言い出したか、人々は口々にそう呼んだ。
蝶は狂っているのか、戦っているのか。
高く、低く、互いにもつれ合い、追い追われ、その一部は力尽きたように竪川の水面に白い花びらのごとく舞い落ちていく。また、一陣の風にあおられて、渦を巻くように空高く舞い上がる群れもある。
時ならぬ花吹雪。
屋敷の侍も、長屋の町人も、みな手を休め、この世のものとは思えぬ不思議なありさまを見物していた。
そのうちに、人々の間から、こんな噂がささやかれ始めた。
「……これは、何かのお知らせに違いねえ」
「やっぱり、善昌様の言う通りだ」
「弁天様のお告げに、嘘はなかったんだ」
噂の主は、松坂町の弁天堂に住む、善昌という尼であった。




