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プロローグ:梅雨寒の客

 六月なかばの、梅雨寒つゆざむとでもいう日であった。


 しとしとと降り続く細雨(こさめ)は、やむ気配もなく、人力車の幌ほろを叩いている。赤坂の、表通りから一本入った静かな屋敷町。その一角にある半七老人の住まいは、明治の洋風建築が建ち始めた界隈かいわいにあって、そこだけが江戸から取り残されたような、古風な平家建てである。そのころ赤坂は、ぼちぼち花街として形作られ出したころであり、場末とも田舎とも言えぬ、雑居地のような場所であった。料亭や芸者の町となるのはまだまだ先のことである。


 襟に落ちる雨だれに首をすくめながら格子戸を開けると、咳払いの音とともに、奥から老人が顔を出した。 「おや、これは先生。お待ちしておりました」いつもの人懐こい笑みを浮かべている。 「ばあやの買い物にしてはちと足音が上品だ。きっと先生だろうと思いましたよ」


 江戸っ子は大体に旅嫌いであるが、半七老人もやはりその一人で、若い時からよんどころない場合のほかには、めったに旅をしたことが無いそうである。それがめずらしく旅行したということで、先だってわたしが訪ねたときは留守であった。老婢(ばあや)の話によると、宇都宮のざいにいる老人の甥の娘とかが今度むこを取るについて、わざわざ呼ばれて行ったということであった。


 今日は半七老人が戻ったということで、訪問とあいなったのである。


 奥の、横六畳のいつもの座敷に通される。この部屋は老人の書斎兼応接間といったところで、維新の際に役目を終えた古い十手や捕物道具が、今や床の間の飾りとなっている。老婢のばあやは、あいにく近所へ使いに出ているらしい。老人は、「あたしの勘働きも、まだまだ捨てたもんじゃないですなぁ」と笑いながら、自身で鉄瓶の湯を確かめ、小ぶりな急須きゅうすに茶葉を放り込んだ。


「いや、わざわざご足労いただきまして。宇都宮じゃあ、とかく降られちまって難儀しましたよ」  そう言いながら、老人が淹れてくれた茶は、熱すぎず、程よい加減であった。


「これは、お土産でもいただいた羊羹ようかんですね。すいません、ご相伴にあずかります」  僕がそういうと、老人は「どうぞ、どうぞ」と手を振った。


 ばあやが使いに出る前に、気を利かせて用意してくれていたのだろう。盆の上には、先日、わたしの家にも届けられた日光羊羹が、見事なまでに薄く切り揃えられて並んでいた。切り口は滑らかで、光を吸い込んだように鈍く艶つやめいている。 㠀口に運ぶと、ねっとりとした舌触りのあとに、小豆のしっかりとした風味と、潔い甘さが広がった。熱い茶が、その甘さをすっきりと洗い流してくれる。


「宇都宮はいかがでしたか。何か面白いことでも?」

「いや、もう」


 老人は顔をしかめ、大げさに頭かぶりを振ってみせた。


「宇都宮の宿場町ならまだしも、そこから三里も奥へ入った田舎でしてね。……ああ、そうだ。あたしがいる間に『雀合戦すずめがっせん』があるってんで、大層な評判でして。せっかくだからと、見物に担ぎ出されやした」

「雀合戦、ですか」

「ええ。何万羽だなんて触れ込みで、そりゃあ大騒ぎでしたがね。実際はまあ、五、六百羽くらいのもんでしょう。ですが、あれが入り乱れてやり合う様は、なかなか見応えがありました。どういう訳であんな喧嘩を始めるんでしょうかね」


 そういえば、東京でもそんな噂を耳にしたことがある。雀や蛙が、理由もなく大群で集まり、争い合うという奇妙な話だ。

「江戸の頃は、そういう話がよくありました」

 老人は茶をすすり、遠い目をした。

「雀合戦、蛙合戦。この頃とんと聞かなくなったのは、あいつらも数が減ったせいでしょう。人間様と同じで、数が増えすぎりゃ、縄張り争いだか何だかで、仲間割れもしたくなるんでしょうよ。ははは」


 そこへ、老婢のばあやが「お寒うございます」と、買い物かごを提げて帰ってきた。雨の音が一層強くなる。

「よく降りますねえ」

 老人は、縁側に落ちる雨音に耳を傾けていたが、ふと思い出したように言った。

「今お話しした雀や蛙のほかに、(ほたる)合戦、それから(ちょう)合戦なんてのもありました。螢合戦は、あたしも若い頃、落合(おちあい)の方で一度見たことがありやす。それから、蝶合戦……。いや、その蝶合戦にまつわる妙な話がひとつありました。先生、この話はまだでしたかね?」


「蝶合戦、ですか。それは初耳です」

 僕は思わず膝を乗り出した。

「その蝶が、何か捕物と関わりが?」

「大ありでさ」

 老人は、にやりと笑った。

「それが、実に妙な因縁なんでございますよ」


 こうして、雨降る明治の夜に、僕はまたひとつ、過ぎ去った江戸の奇妙な事件ふしぎを聴くことになったのである。

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