プロローグ:蛇の話
赤坂の隠居屋の縁側で、半七老人の声が、雨上がりの湿った空気に溶けていく。
「……まったく、あの頃の向島は、今とはまるで違っておりましてね。いつぞやも申した通り、狸も出れば、狐も出る。河童だって、今のお話の通り、出やしたからね」
老人によると、江戸時代の向島は、墨堤と呼ばれて風光明媚であったという人もいたが、まあ、それはつまり建物が無い田舎であったということである。
「今は、花柳街だの花街だの言っておりますがね…あの頃は、料亭も私娼の建屋もなく、そもそも堤に植わっていた桜も、今ほどは植わっておりませんでね……桜がまばらに植わっているだけというありさまでしたよ」
しみじみと老人が言う。
最近の向島は、吾妻橋が木の橋から、日本初の鉄橋に架け替えられ、黒々とした鉄が、明治の近代化の象徴として、伝統的な風景の中に強烈な印象を放っていた。
「榎本梁川( 榎本武揚のこと)やら幸田露伴やらが、居を構える瀟洒なお屋敷もある今とあの頃を比べるのはちょっと難しいでしょうねぇ……なんにせよ、今とは全然違っておりましたねぇ。渡し舟くらいでございますよ、昔を偲ばせるのは」
「蛇も、出たんでしょう」
僕が、先の約束の残り半分を催促すると、老人はまた、悪戯っぽく笑った。
「おや、まだ覚えていらっしゃいました。……ええ、出ましたとも。ですが、こっちの蛇の話は、すこしばかり、あいまいなところでしてね。まあ、そのつもりで、お聞きください」
老人は、年老いた女中が新しく運んできた熱い番茶を一口すすり、その湯気でわずかに曇った眼鏡の奥の目を、ふと細めた。
「あれは、先の河童の一件(お照の父)の、次の年。慶応二年のことでございました」
老人の語りが始まると、明治の洋風建築が遠くに見えるこの座敷が、ふっと江戸の闇に包まれるような、不思議な感覚に僕はいつも囚われるのだ。




