表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
134/427

第三章:鍋墨の手形

「ふむう。……その親父さん、刺青ほりものは?」


「はい。両方の腕に少しばかり」


「何が彫ってある」


「左は紅葉、右は桜だったかと。若い時の道楽だとかで、人には見せないようにしていました」


「背中は?」


「真っ白でした」


「歳は?」


「たしか五十九。……出は信州の方だと聞いていますが、姉さんも詳しくは知らないようです」


 聞くだけのことは聞いた。

 半七はお浪を「後で行くから、おとなしく待ってろ」と帰した。


「お仙、着物を出してくれ。ちいと蒸し暑いと思ったら、空が曇ってきたな」

 支度をしてかどを出ると、子分の幸次郎が走ってきた。

「親分! 柳橋の一件、お耳に?」


「たった今だ。遅れをとった。これから現場ばんばへ行く。おめえも来い」


「へい!」


 柳橋のお照の家は、近所の人々でごった返していた。

 半七は、お浪に目配せし、奥へ通る。

 茶の間の六畳には、検視を終えた新兵衛の死体が横たえられていた。喉の傷は深く、剃刀かみそりのような鋭い刃物によるものと見える。


 半七は、証言にあった水口みずくちへと回った。

「黒い怪物」が入ってきたという台所。土間の柱を丹念に調べていた半七の目が、一点で止まった。

 柱の、低い位置に、黒い手のあとが、ごく薄く残っている。

 懐紙かいしを取り出し、そっと拭き取ると、幸次郎を呼んだ。


こうさん、こいつは何だ」

 紙に付着した黒いすすを見せられ、幸次郎は鼻を寄せた。\


「……鍋墨なべずみ、ですぜ、親分」


「そうだな。……向こう両国に、『河童』の見世物は何軒ある」


「河童、ですか。……あそこらの小屋は、たしかに一軒きりだったはずです」


「よし」半七は、にやりと笑った。


「訳はねえ。幸さん、おめえはこれからその小屋へ行って、河童を引き挙げ(ひったて)てこい」


 この頃、両国広小路りょうごくひろこうじには、お化けや珍獣のたぐいを見せる、いわゆる「見世物小屋」がずらりと並んでいた。 その中に「河童」もあった。葛西かさいの堀で捕らえただの、筑後ちくごの柳川から連れて来ただのという口上こうじょうだが、その実態は誰もが知っている。 十三、四の男の子の頭を河童頭に剃らせ、顔から手足まで鍋墨で真っ黒に塗りたくる。大きな口から紅い舌をべろりと出させ、「がらがら」と鳴き声を真似させる。 他愛もない子供だましだが、「河童」という物珍しさに、八文銭(天保銭/ここではだまされるバカものという含意)を払う客は少なくなかった。


「だが、まだ日がちいと高い。商売の邪魔も気の毒だ。小屋が閉場はねるのを待って、すぐに引っ張ってこい」


「へい!」

 幸次郎が威勢よく飛び出していく。


 半七は茶の間に戻り、お浪にことわって、仏壇の過去帳を繰った。

 新兵衛は、表向きは堅気な善人で、酒も博奕もやらず、毎月四日には決まって両国の橋番小屋へ行き、「放しはなしうなぎ」をするのが常であったという。

 放し鰻。捕らえられた鰻を買い取り、川へ逃がすことで功徳くどくを積むという、江戸で流行はやった善行である。


「月の四日……」

 過去帳の四日のところをめくると、一つの戒名があった。


釈寂幽信士しゃくじゃくゆうしんじ


「お浪さん。この仏さんは、ここの家の何者だ?」


「さあ、あたしにも……。ただ、お父っさんはこの日になると、手ずから灯明とうみょうを供えて、お念仏を唱えておりました」


 半七は、もう一度、新兵衛の死骸を改めた。

 左の二の腕、紅葉の刺青。その蒼黒い葉の陰に、何か別の模様を消したような、不自然な「入墨いれずみの痕」が隠されているのを、半七は見逃さなかった。


「……なるほどな」

 新兵衛は、過去の犯罪の履歴を隠すために、上から紅葉を彫ったのだ。

 そして、その罪を悔い、善人となった。毎月の放し鰻は、その「罪滅ぼし」だ。

 あの「月の四日」の仏こそ、新兵衛の過去に深く関わる者に違いない。


 そこへ、浅草の七ツ(午後四時)の鐘が聞こえた。



「さて、幸さんの様子を見に、両国へ渡るか」

 半七が居合わせた人々に挨拶し、かどを出ようとした、その時。


 陰った空が、紫に一閃いっせんした。

「おや、光ったな」

 と思う間もなく、大粒の雨が、どっと空から叩きつけられてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ