第三章:鍋墨の手形
「ふむう。……その親父さん、刺青は?」
「はい。両方の腕に少しばかり」
「何が彫ってある」
「左は紅葉、右は桜だったかと。若い時の道楽だとかで、人には見せないようにしていました」
「背中は?」
「真っ白でした」
「歳は?」
「たしか五十九。……出は信州の方だと聞いていますが、姉さんも詳しくは知らないようです」
聞くだけのことは聞いた。
半七はお浪を「後で行くから、おとなしく待ってろ」と帰した。
「お仙、着物を出してくれ。ちいと蒸し暑いと思ったら、空が曇ってきたな」
支度をして門を出ると、子分の幸次郎が走ってきた。
「親分! 柳橋の一件、お耳に?」
「たった今だ。遅れをとった。これから現場へ行く。おめえも来い」
「へい!」
柳橋のお照の家は、近所の人々でごった返していた。
半七は、お浪に目配せし、奥へ通る。
茶の間の六畳には、検視を終えた新兵衛の死体が横たえられていた。喉の傷は深く、剃刀のような鋭い刃物によるものと見える。
半七は、証言にあった水口へと回った。
「黒い怪物」が入ってきたという台所。土間の柱を丹念に調べていた半七の目が、一点で止まった。
柱の、低い位置に、黒い手の痕が、ごく薄く残っている。
懐紙を取り出し、そっと拭き取ると、幸次郎を呼んだ。
「幸さん、こいつは何だ」
紙に付着した黒い煤を見せられ、幸次郎は鼻を寄せた。\
「……鍋墨、ですぜ、親分」
「そうだな。……向こう両国に、『河童』の見世物は何軒ある」
「河童、ですか。……あそこらの小屋は、たしかに一軒きりだったはずです」
「よし」半七は、にやりと笑った。
「訳はねえ。幸さん、おめえはこれからその小屋へ行って、河童を引き挙げ(ひったて)てこい」
この頃、両国広小路には、お化けや珍獣の類を見せる、いわゆる「見世物小屋」がずらりと並んでいた。 その中に「河童」もあった。葛西の堀で捕らえただの、筑後の柳川から連れて来ただのという口上だが、その実態は誰もが知っている。 十三、四の男の子の頭を河童頭に剃らせ、顔から手足まで鍋墨で真っ黒に塗りたくる。大きな口から紅い舌をべろりと出させ、「がらがら」と鳴き声を真似させる。 他愛もない子供だましだが、「河童」という物珍しさに、八文銭(天保銭/ここではだまされるバカものという含意)を払う客は少なくなかった。
「だが、まだ日がちいと高い。商売の邪魔も気の毒だ。小屋が閉場るのを待って、すぐに引っ張ってこい」
「へい!」
幸次郎が威勢よく飛び出していく。
半七は茶の間に戻り、お浪にことわって、仏壇の過去帳を繰った。
新兵衛は、表向きは堅気な善人で、酒も博奕もやらず、毎月四日には決まって両国の橋番小屋へ行き、「放し鰻」をするのが常であったという。
放し鰻。捕らえられた鰻を買い取り、川へ逃がすことで功徳を積むという、江戸で流行った善行である。
「月の四日……」
過去帳の四日のところをめくると、一つの戒名があった。
「釈寂幽信士」
「お浪さん。この仏さんは、ここの家の何者だ?」
「さあ、あたしにも……。ただ、お父っさんはこの日になると、手ずから灯明を供えて、お念仏を唱えておりました」
半七は、もう一度、新兵衛の死骸を改めた。
左の二の腕、紅葉の刺青。その蒼黒い葉の陰に、何か別の模様を消したような、不自然な「入墨の痕」が隠されているのを、半七は見逃さなかった。
「……なるほどな」
新兵衛は、過去の犯罪の履歴を隠すために、上から紅葉を彫ったのだ。
そして、その罪を悔い、善人となった。毎月の放し鰻は、その「罪滅ぼし」だ。
あの「月の四日」の仏こそ、新兵衛の過去に深く関わる者に違いない。
そこへ、浅草の七ツ(午後四時)の鐘が聞こえた。
「さて、幸さんの様子を見に、両国へ渡るか」
半七が居合わせた人々に挨拶し、門を出ようとした、その時。
陰った空が、紫に一閃した。
「おや、光ったな」
と思う間もなく、大粒の雨が、どっと空から叩きつけられてきた。




