第二章:怪しき六部
お浪の話をまとめると、こうだ。
けさの六ツ(午前六時)前、まだ柳橋の町が朝靄に包まれている刻限。お照の家の戸を、軽く叩く音があった。
芸妓屋というのは朝が遅い。台所に近い三畳間で、女中のお滝(十七歳)が、ようよう蚊帳をはずしているところであった。
戸を叩く音に、お滝が「はあい」と土間に降りようとすると、茶の間の六畳に寝ていたお照の父・新兵衛が、蚊帳の中から慌てて声をかけた。
「おい、お滝! 出ちゃいけねえ、戸を開けるんじゃねえぞ!」
小声だが、鋭い叱責であった。
お滝が戸惑っていると、表の音は止んだ。
と、思う間もなく。今度は裏口、台所の水口の方から、何者かが飛び込んできた。お滝は朝の支度のために、水口の戸を一枚開けていたのだ。
闖入者は、薄暗い家の奥へまっしぐらに進むと、新兵衛の寝ている茶の間の蚊帳の中へ、まるで鼠のように素早く潜り込んだ。
お滝は、あまりのことに呆気にとられていた。
が、侵入者は、すぐに蚊帳から這い出し、もとの水口から逃げ去った。
まだ半分寝ぼけていたお滝は、何が起きたのか分からず、しばらく立ち尽くしていた。
だが、不安に駆られ、そっと茶の間を覗き込み、蚊帳の中を見て……。
新兵衛の寝間着が、紅い血で一面に染まっているのを見つけた。
お滝は腰を抜かさんばかりに驚き、二階へ駆け上がった。
二階では、娘のお照と、妹芸妓のお浪が、一つの蚊帳で寝ている。二人を揺り起こし、三人が降りてみると、新兵衛は刃物で喉笛を掻き切られ、すでに息絶えていた。
三人の悲鳴で、近所が騒ぎ出し、町役人から変死の届けが出て、与力同心も検視にやって来た。
唯一の証人であるお滝は、番屋でこう申し立てた。
「曲者は、背の低い子供のような怪物で、顔も体も一面に黒かった。裸だったかもしれない。立って歩くかと思うと、這うように走った」
だが、寝ぼけていたのと狼狽えていたのとで、それ以上は分からぬという。
こんな奇怪な申し立てを、役人が真に受けるはずもなかった。お滝は「申し立て不審」として番屋に留め置かれた。
お照とお浪も調べられた。
お浪は仔細なしと認められ、ひとまず戻された。
だが、お照は「申し口に胡乱の廉あり」として、これも番屋に止められた。
この上は半七親分の力を借りるしかないと、お浪が神田まで駆けてきた次第であった。
「そりゃあ、ちっとも知らなかった。十手持ちとして申し訳が立たねえ」
半七は寝転んでいた体を完全に起こした。
「それにしても、子供のような真っ黒なもの、か」
「猿じゃありませんかねえ」と、お仙が茶を運びながら口を出した。
「やかましい。御用のことに口を出すな」
半七はお仙を叱りつけ、考え込んだ。猿が人を殺すとは、聞いたことがない。
「で、姉さん(お照)は、なぜ止められた。何か、心当たりがあるのか」
この問いに、お浪は俯いた。
「正直に話してもらわねえと、助けられるもんも助けられねえ。姉さんは近頃、親父さんと何か折り合いが悪かったんじゃねえか」
「……はい。時々、喧嘩を」
「情夫の一件か」
「いいえ。姉さんには、米沢町の古着屋の二番息子さんがついていますが、喧嘩の原因はそれじゃありません」
お浪が重い口を開いた。
「家のお父っさんが、急に柳橋を引き払って、沼津とか駿府とか、遠いところへ引っ越すと言い出したんです。姉さんが、それを嫌がって……」
「そりゃあ、嫌だろう。なぜ、親父さんはそんなことを?」
「それが、分からなくて。ただ、無闇にこの土地にいるのは面白くない、と。その訳を話してくれないものですから……」
親父の新兵衛は土地を売り、他国へ行こうとする。娘のお照は、江戸を離れたくない、情夫の定次郎と別れたくない、と駄々をこねる。
その矢先に、新兵衛が殺された。
誰の目にも、お照と定次郎が怪しく映る。定次郎は、昨夜から行方が分からぬという。
「おれにしても、まずはそこを疑う」と半七は頷いた。
「だが、どうにも解せねえのは、その親父さんの方だ。なぜ急に土地を離れる気になった? 何か、怨まれるような覚えは?」
「それが……」お浪は、さらに声を潜めた。 「お滝から聞いた話ですが、先月の初め頃、日の暮れかかる時分に、一人の六部が家の前に立っていたそうです」
六十六部――。諸国の霊場を巡礼する行脚の僧である。もっとも、中には胡散臭い輩も多かった。
「そこへ、お父っさんが外から帰って来て、その六部と顔を合わせた途端、大変にびっくりした風だった、と。二人は小声でしばらく立ち話をし、お父さんはその六部にいくらか銭を渡したようです」
「ほう」
「それから、その六部が時々、日暮れに訪ねてくるようになりまして。一度は茶の間へ上がったこともあったそうです。あたしたちはお座敷に出ていて知りませんが……。どうも、その六部が来るようになってから、お父っさんは田舎へ行くと言い出したようなんです」




