scene6
――6――
竜胆大附属小学校のジャージは、校外実習でも周囲からよく目立つように派手な色が採用されている。小等部は赤、中等部は少し落ち着いて青、高等部はそんなに目立たなくても大丈夫だから黒、みたい。
わたしが着ているのも赤に白いラインのジャージで、左胸には竜胆の校章ワッペン。右胸と左肩には白い刺繍で空星つぐみの名前。今日はそのジャージの上から、出席番号とクラスが書かれたゼッケンを被っている。わたしの出席番号は十五番だ。
「えーっと、わたしのばんごうは――」
「あっちじゃない? つぐみちゃん」
「わ。ありがとう、ららちゃん」
友達になったばかりの姉川さん改めららちゃんに聞いて、わたしは指定されたブースに向かう。体育館はたくさんのパーティションで区切られていて、一つ一つのスペースは六帖半くらいかな。
床にはテープで矢印が作られていて、順路がわかる。パーティションの側には旗が立てられていて、そこで自分に割り当てられたブースを探す形だ。わたしに割り当てられたのは、中央列の真ん中。一番たくさんの人が通り抜けるブースだった。
「じゃ、じゃあまたあとで」
「うん。またね、ららちゃん!」
照れが残る様子のららちゃんに手を振って、わたしは自分のブースへ。
わたしは今日まで、パートナーの一紗先生と練習をしてきた。一紗先生の指示に従った、要求どおりの演技。つまり、スポンサーに指示された演技を指示された範疇でクオリティを上げきる練習ってことだよね! 楽しかったなぁ。
今日はその集大成だ。日に日に疲れた様子が増していく一紗先生の様子は心配だったけれど、今日で一区切りだからね。先生も肩の力を抜いて休めると思う。せっかくだし、ブースに向かいながら台本を思い返しておこう。
親『どうしてこんなこともできないの!』
子『ごめんなさい、でも』
親『言い訳しないで! ああ、もう、宿題はやったの?』
子『やったよ。宿題も、金魚の餌やりも、お皿も洗った』
親『ならどうして、水筒を洗わなかったの!?』
子『ご、ごめんなさい、お母さん。忘れてしまったの。じ、自分で洗うよ』
※男性の場合は『お父さん』としてください。
親『やれるならどうして最初からやらなかったの?! どうして言うことが聞けないの!』
※叩く演技
子『(悲鳴)』
親『ああ、私、なんてことを。ごめんなさい、ごめんなさい』
子『いいの。大丈夫だよ、大丈夫だよ、お母さん』
うんうん、こんな感じだ。短くて少し寂しい。
思い返しながら、わたしは周囲を見つつ先生を探した。
(先生はどこかな?)
ブースに着いてぐるりと見回す。ブースの前には長机が一つとパイプ椅子が一つ。腰掛けているのは白髪頭の壮年の男性で、眼鏡と、目尻の笑い皺と口元の白髭が特徴的だ。
「しんさいんのせんせいですか? そらほしつぐみです! 今日はよろしくおねがいします!」
「おや、礼儀正しいね。僕はこの小等部の教頭で、越坂部吾郎。よろしく、リトルレディ」
竜胆学園は、小等部や中等部など、それぞれの校舎に教頭先生と校長先生を配置している。小等部、つまりわたしたちの校舎の教頭先生というのが、この越坂部先生であるようだ。勉強不足ではずかしい。
真四角の眼鏡と優しい声色。いい人だ、なんて思いつつ、越坂部先生と一緒に一紗先生を待つ。手持ち無沙汰で周囲を見ていると、ちょうど真向かいのブースで、他のクラスの先生とお話ししている一紗先生の姿が見えた。先生はわたしに気が付くと、お話ししていた先生に会釈をして、戻ってくる。
「お待たせしました」
「いえ!」
「はは、開始にはまだ時間があります。こちらは気にせず、少し児童の肩の力を抜いてあげても良いかも知れませんね、悧巧院先生」
「お気遣いありがとうございます」
悧巧院先生は表情を変えずに頭を下げ、それからわたしに向き直る。小豆色のジャージはどうやら私物らしい。昔着ていた学校指定の黒ジャージは、飼い犬の寝床の一部になっているようだ、と、真宵の資料に書いてあった。
そう、真宵は調査の上で本当に先生を丸裸にしてくれた。趣味嗜好、家族構成、そして――通院歴まで。既に廃業してしまったクリニックだったため通院内容は追調査中だそうだけれど、ひどく思い悩む時期もあったという。
今、乗り越えているのかいないのか、わたしにはわからない。わたしにできることは、いつだってたった一つ。演技をすることだけだから。
だから。
「空星さん」
「はい、かずさせんせい」
「なんで名前呼び……いえ、些事です。あなたのことだから、準備はいいのでしょうね」
「はい、せんせい」
従順に。
規則に則り。
礼儀に準じ。
言葉に頷く。
「……少し早いですが、準備はできているようです。はじめてもよろしいですか? 越坂部先生」
「はい、構いませんよ。空星さん、僕は見守っているだけのカボチャと思って、どうかがんばってね」
「はいっ!」
無邪気に。
幼気に。
純に。
立ち位置には白いテープが貼られていた。越坂部先生から見て右がわたし、左が一紗先生だ。短い台本。ショートプログラム。載せる感情の“指示”は、『母の機嫌を直そうとする子供』だ。
「では――はじめてください」
息を吸う。
胸を指で叩いて。
母親に言い訳をする子供を演じる。
「どうしてこんなこともできないの!」
ヒステリックに叫ぶ声。反響する音。舞台での活躍経験もある先生の演技は、よく徹る。わたしはその声に反応するように、びくりと肩を持ち上げた。
口先から零れそうになる言い訳を、はくはくと口を動かすだけで声にはせず、項垂れて、ジャージの裾を掴んだ。
「ごめんなさい」
顔を上げ、声を震わせ。
「でも」
母の逆鱗を逆なでする、余計な一言を告げる。
「言い訳しないで!」
案の定、母は声を上げ、わたしの言い訳を封じ込めた。
先生の言うとおりの演技だ。先生に合わせた演技だ。先生の要望のままの演技だ。
ああ、なのに。
「ああ、もう」
先生は頭をかき、ふらついて。
「宿題は、やったの?」
「やったよ。宿題も、金魚の餌やりも、お皿も洗った」
「ならどうして、水筒を洗わなかったの!?」
わたしが我が身可愛さに告げた言葉に、過剰に反応して声を上げた。言われたこともできないのに、当たり前のことで誇った気になる娘が気に入らないのだ。理不尽な母親だろう。優しさに欠けているのかも知れない。でも、それだけだ。
ああ、先生。わたしは言われたとおりに演技をしているよ。あなたの望むように振る舞っている。従順な子供でしょう? それなのに。
どうして、そんな退屈そうに演技をするの?
(ああ――そっか)
わたしの演技が、つまらないからだ。
(ねぇ、鶫。演技が面白くないなんて、そんなの寂しいよね)
内側に沈む。
ほんの少し、瞬きの間。水に沈みゆくように、時間の概念がないところに、心を鎮めていく。演技はたのしくありたい。人と人を繋ぐ演技が、退屈でつまらないものに成り下がるなんて許せない。
そうだよね、鶫。
――そうだね、つぐみ。
心が同調する。
トラウマからの逃避ではない。
――だってもう、“知った”から。
心が共振する。
誰かへの依存ではない。
――だって乗り越えることは、“楽しい”から。
混ざる。混ざる。混ざる。
わたしが鶫の真似をするのではなく。
私がつぐみの模倣をするのでもなく。
わたしと私が融け合って、私とわたしが同じ道に踏み出して。
(ふふ、凛ちゃん。こういうの、確か――絆と友情のユニゾンフォームって言うんだっけ)
互いに結んだ手のひらが、するりとすり抜けて。
ブレた身体の外縁が、同じ形の波紋を生んで。
昼と夜が、太陽と月が交わるように。
二つの輪郭が共鳴して、融けて。
つぐみと鶫が――重なり合う!
「ごめんなさい、お母さん」
目を開ける。
そうだよね、退屈だったよね、ごめんなさい。
だからわたしもあなたの飼い犬のように、喉笛の上で鳴いてあげる。
ここはどこだろう。きっと母さんと住んでいた家みたいに、腐った畳に足を取られるような、ぼろぼろのアパートの一室だ。母さんはきっと暴力でしか愛情表現を知らなくて、ぶつけられる相手がわたししかいなくて――それで、愛してるって思っちゃうんだ。
いいよ、母さん、あなたの遊びに付き合ってあげる。暴言? 暴力? うん、いいよ。好きなだけわたしを使って己を満たして。でもちょっとだけ、あなたの心に触れさせて。
だってほら――ちょっとくらい怖い方が、人生って楽しいからね!
――/――
空星つぐみは従順だ。一紗の指示に従って、一紗の思うように演技をする。その範疇から外れたら、容赦なく減点しようと一紗は心に決めていた。
(これが終わったら評価シートを纏めて。ああ、小川さんの様子も見てあげないと。片付けのスケジュールは……)
だからこそ、表面上は台本をなぞりながらも、内心では別の仕事について思いを馳せていた。この程度のショートプログラムは、つぐみが従順であるのなら、強く意識を割く必要もない。
だから一紗は、見逃した。
「ごめんなさい。忘れてしまったの。自分で、洗うよ。わたし、できるよ」
彼女のスイッチが完全に入った、その瞬間を。
「やれるならどうして最初からやらなかったの?! どうして言うことが聞けないの!」
激昂した母を演じる一紗は、無意識のうちに、汗ばむ自身に気が付いた。空調完備の体育館で、比較的寒がりの一紗は初夏の体育館で汗ばんだりはしない。それでも、なにが起こっているのかわからず、声を上げながらつぐみに意識を割く。
つぐみは額の汗を拭い、少しよろけて後ずさる。なにか言おうとする瞳は、一紗に縋るように潤んでいた。暑いのだろうか。吐き出すと息がすこし荒くて、一紗は、瞬きの間に、今が真夏の猛暑であるかのように錯覚する。
心の内側に、つぐみの表情がするりと入り込む。一紗は二の句の告げ方を忘れたように、つぐみの、娘の、己の心を撫でるような激情の瞳を見返した。
「どうして」
区切らずに告げるはずの言葉が、とっさに途切れた。それでも演技を継続するために吐いた言葉は、娘を咎めるように震えていた。
つぐみがふらつく。
熱中症? 一紗はその考えを、頭を振って追い出す。その仕草は、まるで葛藤を表しているようだった。
「どうしてッ!」
やり直すように張り上げた声。
しんと静まりかえる舞台。引きつるように零れるつぐみの声。一紗は、畳敷きの部屋を幻視する。汗ばむような真夏で、水筒を洗わなかった娘。腐ってしまったら買い直さないといけないのに、どうして言うことが聞けないのか。こんなにも、心を裂いているのに。一紗は悔しさから唇を噛み、苛立ちを、娘に向ける。
「どうして、言うことが聞けないの!」
手を上げて、娘を見た。
怯え、恐怖、諦念――期待。
(期待?)
叩け、叩け、叩け。
自身に言い聞かせながらも、どうして娘はこんな表情をしているのかと、一紗は躊躇う。
そもそも何故、こんなにも苛立っているのかと。
(言うことを、聞かない、から)
――一紗は、最初から“均す”ことを理想とした教師だった訳ではない。
新米教師の頃、一紗は全ての子供を掬い上げ、皆が平等に演技を楽しめる環境作りを目的としていた。けれど決して平坦な道ではなく、何度も何度も悩み、迷い、そうして“相談”をして。
『全てを平等にするのなら、才能ある子もまた、才能なき子に均してはいかがでしょうか?』
『でも、それでは平等に楽しんで演技ができなく、なりませんか?』
『出る杭は打たれます。他者に合わせられない子は、残念ですが、心折れてしまうことでしょう』
『でも、そんな』
『大丈夫、ええ、大丈夫です。きっと、子供達は貴女に感謝しますよ。ええ、きっと』
一紗の中で、“声”がリフレインする。一紗はつぐみの心を撫でるような演技によって、忘れていた記憶を掬い上げ、走馬灯のように再生していた。
いつの日のことだったか、一紗自身も忘れていたこと。心の奥底の秘められた一幕。その日が具体的にいつだったのか、夢なのか現実なのかもわからないこと。だがなんであれ、事実、この後、一紗の均す指導によって数々の児童が舞台を、演技を成功してきた。
(なのに)
一紗はつぐみを見る。足が沈むような仕草、腕を庇うような身振り、卑屈さの中に慈愛を秘めた目。呼吸一つ一つが、一紗を演技の世界に取り込んで、溺れさせ、思い出させる。
(私が目指したのは、均す、演技……?)
なにを、理想としていたのか。
(違う。ああ、どうして。そうだ、子供も、大人も、心躍るような演技を――)
そうして、一紗は。
「――ほう」
一紗の耳に、声が届く。越坂部の、感嘆の声だ。それだけで、一紗はつぐみの演技に引っ張られて、のめり込んでいた自身に気が付いた。心の芯をめくり上げるような、真に迫るという言葉では生ぬるい。
“真を創造する”演技。
(でも、だから、どうしろって言うのよ――!)
つぐみの演技は完璧だ。
徹頭徹尾、一紗の指示に従って演技の方針を決めていた。それを勝手に読み取って、勝手に――手のひらに乗ったのは、一紗の方だった。
情景を見せる演技。その場にいるかのように振る舞わせる演技。例えば霧谷桜架のような大女優ならば、その程度、やってのけるだろう。
だが、つぐみは――架空の現実を“創造”し、演者の“心”を引きずり込む。
外から見た人間では到底理解し得ない、二つの才能と二つの技術と二つの激情が、完全融合した末の演技。
「たたかないの?」
疑問。その台詞にない言葉を出させてしまったのは、他ならぬ一紗自身だ。一紗が硬直してしまったから、つぐみは一紗への献身を表すように、アドリブを行った。
(ああ、私は)
だからこそ、一紗は気が付く。振り上げた手を受け入れようとする彼女の献身と、その卑屈さは――一紗が作ったモノなのだと。
振り上げた手を下ろして、つぐみの頬に当てる。叩くのは今日が初めてではないのだろう。この母親は、何度も何度もこうして理不尽に、娘を叩いてきたのだろう。
そうして作られた従順さに、一紗は、娘の頬に手を当てたまま、項垂れる。床に座り込み、母の手を受け入れたつぐみを見る。
「ああ、私、なんてことを」
震える手。
理不尽を働いたのは己であるはずなのに、傷ついたように振る舞う浅ましさ。
一紗は、ふらつくほど足が沈む腐った畳に身を預け、跪くように娘に縋り付く。
「ごめんなさい、っ……ごめん、なさい」
「いいの」
「ぇ――?」
娘は――笑っていた。許しているのではない。受け入れているのではない。喜んで、いた。引きつってうまく笑えない頬、母の手に添える指はうまく曲がらず、引きずる足の所以は察するまでもない。
叩かれることでしか愛情を感じることが出来ないほど、理不尽に耐えてきた少女は、新しくもたらされた痛みに――
「大丈夫だよ」
――うつくしく、わらっていた。
「大丈夫だよ」
微笑みには、優しさと慈愛があった。
迷える子羊を抱擁する、残酷なまでの愛があった。
「お母さん」
呼ばれて、一紗は愕然とする。
そうして気が付くのだ――化け物を作ったのは、己自身であるのだと。
「すばらしい」
「っ」
越坂部の――いや、周囲で思わず足を止めて見ていた観客の歓声と拍手で、一紗は我に返る。
つぐみは指示と寸分違わぬ演技で、ただとてつもない演技力で、一紗を舞台に引きずり込んだ。一紗は、思わず己の腕を見る。高揚と興奮で震える指先は、強く握りすぎて真っ白になっていた。
(たのしかった、なんて、そんなこと、あるはずがないのに)
一紗は表向きは越坂部たちに頭を下げ、けれど内心では、言いようのない感情に振り回されていた。ただそれでも、一紗は誰よりも演技を楽しんだつぐみを労るべきだと、そう思っていた。
「空星――つぐみさん」
「?」
「お疲れ様でした。評価に移る、前に――お水でも飲んで、肩の力を抜きましょうか」
一紗はそう、困ったように微笑む。
一紗は気が付くことはなかったが――その笑顔は、彼女ががむしゃらだった新人時代に見せていた笑顔に、よく似ていた。




